30年前のあの日のこと
1995年1月17日の早朝に起こった、阪神・淡路大震災。
当時私は兵庫県西宮市に住んでいて、家族とともに被災しました。
3歳だった私は他のことは大抵覚えていないのに、あの日のことだけはやけに鮮明に覚えていて、突然おもちゃが入った箱が足元に倒れてきて目が覚めると、母が「危ないからね」と言って慌てて私に靴下を履かせ、飼っていたお魚がなぜかお布団の上で死んでいました。
3つ上の兄は、いつまででも寝ていられるタイプの子どもだったので、地震が起きた後も寝続け、母は暗闇の中で兄の名前を呼び続けました。しばらくして目をこすりながら起きてきた兄の姿を見て、3歳ながらに「この状況で起きないお兄ちゃんは結構すげえ」と思った記憶があります。
とはいえ、兄の枕元に立っていた箪笥は傾き、「このところ地震が多いから」と両親が地震の直前に箪笥の上部にはわせていたピアノ線に引っかかって止まっていたので、ピアノ線がなければ兄はどうなってしまっていたのか、今考えるとゾッとします。てか、両親まじでグッジョブ。
その後父に抱えられて車に乗せられたような記憶があって、その時に父の顔を見たら、父は目の上のところをケガしていました。
「血出てるよ」的なことを私が言ったら、父は「木が出とってな、ちょっと切れたけど大丈夫や」みたいなことを言っていたような気がします。
当時住んでいた家は地震により住めなくなってしまったため、その後1ヶ月か2ヶ月か、私と兄が通っていた保育園の体育館で家族4人で避難所生活を送り、春が近づいて来た頃、尼崎市に引っ越しました。
3歳だった私の記憶は30年の時を経てかなりデフォルメされている可能性はありますが、今考えてみると、より恐怖が強かったところだけが確かな記憶として残ってしまっているのかもしれません。
死んだ魚、起きてこない兄、傾いた箪笥、怪我をした父。
当時流行っていた曲を聴くと、今でも「ああこれは震災の頃に車で聴いていた曲だなあ」などと、ふと思い出すことがあります。
おぼろげな部分もあるけれど、様々な記憶と結びついて、あの日のことは今でも私の中にしっかりと残っているのです。
でも怖かった記憶と同じぐらい、「何か踏んじゃったら危ないからね」となるべくいつもの口調で言いながら靴下を履かせてくれた母の姿や、ケガを心配する私に「大したことない」と笑いながら答える父の姿もしっかり頭に残っているので、私の命は両親の手によって守られたのだなあと毎年この日が来るたびに実感します。
当時両親はまだ20代で、今の私よりも随分若かったのだと思うと、自分たちも不安だったはずなのに私たち子ども2人の命を懸命に守ってくれたことに、なんというか、尊敬の気持ちと、命の恩人とはまさにこのことじゃん的な気持ちと、人生をかけて感謝を伝えていくべきだという気持ちが湧いてきます。まあ湧いてくるだけなのが私の良くないところなんですけれども。
客観的に見ると「命が助かっただけでも良かったと思わなければならない」という状況の中で、確かにそれは本当にそうなんだけれども、やはり生活が一変してしまったことで両親の中には当事者としての様々な思いがあっただろうと思います。
兄は兄で、本来であればその年近所のお友だちとみんなで同じ小学校に入学するはずだったのに、それも叶わず、お友だちが1人もいない街で小学生となりました。兄とその話はしたことがないけれど、きっと6歳なりの思いがあっただろうと想像します。
「命が助かって良かった」というのは、すぐに「とにかく生きていかなくてはならない」に変わり、両親や助けてくれた方々のその切実な思いがあったからこそ、私は今もここにこうして存在していられるのだと思うのです。
日本は地震大国であり、私たち家族が被災したあの震災以降も各地で未曾有の大震災が起こり続け、災害のニュースを目にするたびに、胸を痛めるとともに自分が生きているのは奇跡なのだと実感します。
今こうしている間にも、全国各地で大変なご苦労をされておられる被災者の方がいらっしゃることと思います。
何ができるわけでもないし、というか、私にはほとんど何もできません。
ただただ思い出して、忘れないで、奇跡的に守られた自分の命を大切に生きていく。
そして、助けを求める誰かのために、支援を待つ誰かのために、自分にできることを、たとえそれがどんなに小さなことでも粛々とやる。
阪神・淡路大震災から今日で30年。
あの日のことを思い、あの日途切れてしまったいくつもの命を思い、奇跡的に途切れなかった自分の命を思い、守ってくれた両親を思い、私は明日からもそうやって1日1日を大切に過ごしていこうと思います。