正解がないって話
数日前のことになるが、久しぶりに頭の中をあえて真っ白にさせるというか、頭の中を空っぽにするとは言えなくとも何も考えさせないようにする時間をとった。
と言ってもその日はとある用事があってネカフェの個室にこもっており、その用事の途中に趣味方面でまあまあ大きめなビッグニュースが入ってきたこともあってか、用事が済んだ後にボーっとしてしまい滞在予定時間をオーバーしたので本来行きたかった遠方の場所に行けなかった、という話でもあるが。
その代わりと言ってはなんだが、ネカフェを後にした私は徒歩5分ほどの場所にあるコンビニへと直行した。そこはイートインスペースがあるコンビニだったので、割引シールの付いたおにぎり、アイス、野菜ジュース、ゼリー飲料という謎な組み合わせを買って飲食を済ませたのだが、道路を挟んで斜め向かいにある別のコンビニへと向かうと、あろうことかまたアイスやデザート類を買い込んだ。このコンビニにイートインは無かったためバスに乗ってそそくさと帰宅したのだが、誰からも理解されないのでは?と思ってしまうほど、自分でもよくわからない時間を過ごしていたような自覚がなんとなくある。
今思うとあの時間は一体なんだったのだろうか。
しかし、後から振り返ってみて「一体なんだったのか」と思う行動ほど、実は自分自身を回復させるための時間だった、ということも時にはある。
だからこそ、そのことを一概には責められないというのが実情(なのかもしれない)。
私は「結局のところ全ての行動には何らかの理由があって、行動のどこかには必ずその理由が落ちており、理由がないと思っていてもどこかには何らかの事情が隠れているはず」という考え方をよくする。
ただ結局のところ人間の考え方というものに明確な正解はなく、その人がそう思えばそれでいいという部類なのかもしれない。例えば他人の話を聞いていて共感できないような考え方も意外と身近なところに散らばっているので、それが後から悩みの種になることもある(ような気がする)。
最近はサッカーの試合を観たり、自分が好む戦術が何なのか考えたりする時間が頻繁にある。
これもまた明確な正解というものがなく、終わりのない議論にもなる。しかし、それなのに人々はあれがいい・これがいいと意見を出し続け、気に入らないものにはああだこうだと批判を重ねる。
確かに戦術はたくさん存在するし、フォーメーションもたくさんある。また私が好きな部類だと「保持と非保持で可変していて……」のように、観る人によって考えていく内容も様々だ。これもサッカー界における人々の悩みの種という部類なのかもしれないが、結局のところサッカーの考え方というものにも明確な正解はなく、こちらもその人がそう思えばそれでいいという部類なのかもしれない(と感じる)。
自分から見る世界で日々を生きていると、その時自分自身で正解だと信じたものが正解でなかったり、逆に正解でないと感じたものが正解だったりする。
だからといって明確な正解ばかり追い求めてしまうと、自分で自分を苦しめることに繋がりかねない。
「いくら完璧主義でもある程度妥協が必要だよね」
という気持ちで、ふらっと気楽に生きたいものだ。
……最近SNSを見て、ふとそんなことを思いました。