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「天使のいない世界で」第1章 あたたかな場所には、とどまれなくて(8)

 宿は民家を改築したものだそうで、他のところに比べて部屋数が少ないとのことだった。たしかに、今通過してきた一階の廊下には共用の浴室とトイレを含め、片手で足りるほどの扉しかなかった。

「お客さんたちの部屋は、二階だよ。あいにく建物側だから見晴らしも日当たりも良くないけど、角部屋の快適さは保証するからね」

 歌うようにそう言い、女将が階段を登り始める。彼女の後ろに続いて手すりにつかまると、背中からエルの鼻歌が聞こえてきた。

(エルさん、喜んでくれてる。やっぱり、引き留めてよかった)

 階段を登る足取りは軽い。きっとエルがあのまま宿から出て行っていたら、このようにすっきりとした気持ちにはなれなかっただろう。

(同室が嫌、なんてわたしのわがままのせいで、エルさんの旅を邪魔しちゃいけないよね。天使だってバレないように、上手く立ち回れば済む話なんだから。……たった数日だもん! いくらぼーっとしてるわたしにだって、それくらいできるはず!)

「二人の愛の巣、楽しみやなあ~」

 生誕祭期間は明後日までだと、船の中で勇者ファンの女性から聞いていた。
 そのため、期間終了に合わせてメイも島を出ようと思っている。
 船の混み具合もあるため計画通りにいくかどうかはわからないが、勇者の目と鼻の先に居続ける選択は安全とは言えない。それまでにジュジュの情報が見つからなければ、他の地域を回り、また機会をあらためた方がいいだろう。

「おーい。メイちゃーん」

(どうか、滞在中にジュジュさんについてわかりますように……)

「ここがお二人さんの部屋だよ」

 たどり着いたのは、二階の角部屋だった。
 女将が木の扉を開き、小ぶりなテーブルの上に置かれたオイルランプの火をける。オレンジ色のあたたかな光が、室内をぼんやりと照らし出した。

「お兄ちゃん、ちょいとこっちに来てもらってもいいかい?」
「はいはいー」
「窓の立て付けが悪くてね、ちょっと風が吹き込んでくるんだよ。だから、閉めるときはこれをこうして――」

 女将がエルを窓際へと誘導し、上げ下げ窓の扱い方について説明している。会話を耳に挟みながら、メイは部屋の中央辺りで足を止めて狭い室内をゆっくり見回した。

 年季の入った生成り色の壁、毛がすり減ったワインレッドの絨毯。茶色で統一された日に焼けた家具は、小さな丸テーブルに椅子が一脚、衣装棚、そして――。

「ベッドが一つしかなくてごめんね。まあ、恋人同士なら問題ないか。冬だし日陰で寒いから、抱き合って眠るといいよ」
「――!」

 考えてみれば当然のことだったのに、今更ながらことの重大さに気がついた。
 どうやらこの手の話が好きらしい女将の、冗談を言っているようにも大真面目にも聞こえる台詞に反応している余裕はない。

 はっと振り返ったところにある、壁に沿って置かれたベッドは一つだけ。しかも、明らかに一人用のサイズなのだ。
 しかし、わかりやすく動揺するメイとは対照的に、エルはいたって平気な様子で「問題あらへん」なんて軽く返している。

(そ、そうだよ! 何動揺してるの? 恥ずかしい!)

 エルにベッドを使ってもらって、自分は床で眠ればいいだけの話だ。そう考えて、胸に手を当て、深く息を吐きだす。

「それじゃあ、ごゆっくり。朝食には顔を出しておくれよ」

 パタン、と音を立てて扉が閉まった。それと同時に、エルがこちらへと向き直る。
 一歩一歩近づいてくるから、メイもそれに合わせて後ずさった。

「え、ええと……どうして近づいてくるんですか……?」  
「メイちゃんこそ、どうして離れようとするん?」
「それは、」
「後ろ、よく見ないと危ないで?」
「え……きゃあっ!」

 自分は本当にぼうっとしているのだと思い知らされた。さっき見たばかりで、しかも考えてたくせに、背後に置かれているベッドの存在を完全に忘れていたのだ。

 ぼすん、とやわらかな衝撃を背中に感じる。そのはずみで、首からかけていた羽根の入った小瓶と『鍵』がブラウスから飛び出した。
 仰向けにベッドに倒れ込んだメイへと、影が落ちる。

「……あの、エルさん……?」

 エルは無言のまま。ベッドがきしむ音が静かな部屋に響き渡り、長い指がメイの顎にかかった。

「メイ」

 急に呼び捨てにされた名前。しかも甘い声で囁かれたせいで、脳がびりびりっと痺れる。

「目、閉じて」

(ま、まさか……まさかまさか……)

 思考が停止する。メイは、身を固くしてぎゅっと瞳を閉じた――のだが。

「く……あははっ!」

 弾けるような笑い声に、ん? と瞼を上げた。ベッドに片方の膝を預けたエルが、仰け反るようにして笑っている。

(え、笑ってる?)

「いやあ、嬉しいわ。メイちゃん、俺のことちゃんと男として見れくれてるんやな~。好きな奴がいる言うとったけど、脈なしってわけでもなさそうや」

 数秒ののち、メイは全てを理解した。真っ赤になって声をあげる。

「……か、からかったんですね!?」
「ごめんごめん。ちょっと魔が差して」

 エルは楽し気に笑うと床に立ち、「ほら」と手を差し出してきた。
 メイはそれを無視して、自力で起き上がる。小瓶と『鍵』をブラウスの胸元にしまい、ベッドから降りた。

(……ひどい。ひどすぎる……!)

「あれ。怒ってるん?」

 無言のままこくん、と頷くと、大きな手が頭へと乗った。そのままぽんぽんっと撫でられる。

「ほんま、メイちゃんは可愛いなあ」

 かあっと頬が熱くなる。この島に来てからというものの、彼はいつもに増して積極的ではないか。これでは心臓がもちそうにない。

「今日から楽しくなりそうや」
「……本当の、ほんっっとうに、他の部屋が空くまでの間だけですからねっ!」
「わかってるって」

 そう言うと、エルは右手をごしごしっとズボンの裾でぬぐった。

「怖い思いしたばかりだってのに、からかってごめんな。あらためてよろしく」

 謝罪ののちに、差し出された手。

「よろしく、お願いします」

 メイは、おずおずとその指先に触れた。すぐに、ぎゅっと包み込まれる。
 エルはにっと明るく笑った。しかし、やはり瞳は見えない。

(お別れするまでに、本当の笑顔、見られるかな)

 心地よいぬくもりを手のひらに感じながら、そんなことを考えた。



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