沈殿か、沸騰か
南部陽一郎は一般向けの著書『クォーク』のなかで自発的対称性の破れについて解説し、真空にクォークが沈殿する、と語った。クォークがそこら中にたまっているのがこの宇宙の真空だという。真空という言葉を聞くとどうしても何もない空っぽというイメージをもってしまうが、そうではない。真空とは、あらゆる状態のなかでエネルギーが最低になるもののことをいう。エネルギーがそれより下がらないので、そこからはもうエネルギーをくみとることはできない。たとえそこにクォークが沈殿していたとしても。
前回まで話してきたことは、クォークの「沈殿」とはずいぶん話が違うようだ。グルーオンの背景場のなかには空間にからみついたものがあり(インスタントンと呼ばれる)、クォークはそこを通るときにはエネルギーのペナルティを払わなくてよい。そういうのが空間のいたるところにあると、クォークはインスタントンの島を渡りながら遠くまで飛ぶことができる。ただし、実際の粒子として遠くまで飛ぶ、つまり軽いものはパイ中間子だけで、他はそうはいかない。クォークと反クォークが別の島を探して飛び移る必要があるので、どうしてもペナルティを受け、遠くまで飛べない。つまり重くなってしまう。そういう話だった。インスタントンの島はいつもじっとしているわけではない。むしろ量子論の原理にしたがって生まれては消えるのを繰り返している。空間にはインスタントンがいっぱい沸いては消える。まるで沸騰しているかのようだ。
沈殿と沸騰。この両者は同じことを表している。量子色力学(QCD)ではグルーオンの背景場が重要になるのだが、沸騰するグルーオン場とそれにしがみつくクォークをすべてならして(平均して)しまうと、クォークが沈殿しているという解釈もなりたつ。沸騰するグルーオン場の個別の様子が細かすぎて見えないほど遠くからみればそうなるということだ。こういう平均化の操作は、物理学ではしばしば見られる。すべてを細かくみなくても、全体をざっくりと見てまず理解するというのが有効だからだ。
さて、沸騰するグルーオン場の様子は、実のところ理論的に計算するのが非常に難しい。だから、ここまで話してきた解釈は、もっともらしい「お話」でしかなく、それで何かを計算できるわけではない。実際に計算するには数値シミュレーションが必要になる。それが格子QCDシミュレーションだ。シミュレーションをやってみると、グルーオンが沸騰する様子が確かに再現される。ただし、見つかったのは想定されていたようにきれいに巻きついたインスタントンではなく、もっとぐちゃぐちゃで、それでもよく調べてみると空間に巻きついているような何かだ。そういうのが空間を埋めつくす。沸騰といっても、相当温度が高くてぐらぐら煮えたぎった状態を想像してほしい。こうした「めちゃくちゃ」は実のところ必要なことでもある。クォークの閉じ込めはランダムなグルーオン背景場がもたらす。 整然としたきれいなインスタントンだけではそうはならないのだ。
シミュレーションを使えば、こうしためちゃくちゃに見えるグルーオン場のなかにどれだけ「巻きつき」が隠れているかを数え、その大きさを定量的に調べることもできる。この数が、自発的対称性の破れの大きさを与えることになる。こうして得られた結果は、さまざまな実験データから導かれる評価とよく一致している。現在ではむしろ、シミュレーションこそが量子色力学の真空の様子をもっとも正確に、精密に調べる手段になっている。いくら実験をくりかえしてもわからないことも、シミュレーションなら手に取るように調べることができるわけだ。
沸騰するグルーオン場の海を飄々とすりぬけていくクォーク。しかし決して単独であらわれることはない。その背景を想像していただけただろうか。
『クォークの気持ち』より再掲のうえ加筆
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