走る結合定数、ふたたび
量子色力学の「走る結合定数」について解説したはずの前回の記事は、我ながら不十分なものだった。結合定数が「走る」とはどういうことなのか、もう一度考え直してみたい。
ゲージ理論はくりこみ可能な理論だ。その意味は、見るスケールを変えても、つまり拡大してみても理論が変わらないということ。この理論のもつ唯一のパラメタは結合定数で、電磁気学でいうところの電荷の大きさみたいなもので、電荷が一つあるときにつくる電場の強さを決める。量子色力学でも同じで、クォークがあるときにできる色電場の強さを決めるのが結合定数だ。ただし、色電場は自己増殖するので、色電荷を一つ置いておくと、そこから離れれば離れるほど色電場が強くなる。これが「走る結合定数」の一つの見方になる。だが、それだけだと「色電荷を一つ置く」ということの意味がわからなくなってくる。たった一つの色電荷には近づくも離れるもない。その色電荷の大きさ(あるいは結合定数)とはいったい何だろう。
もう一度基本にもどってみることにしよう。場の量子論では近距離の場の振動のおかげで発散がでてくるのが問題だった。無限大では話にならないので、とにかく計算できるように空間が小さな画素からできていると思って理論を作ることにする。(「くりこみ群とは」を参照。)遠くから見れば小さな画素など見えないので、単に連続な空間に見える。くりこみ可能な理論では、画素の大きさをどんな値に取ったとしても遠くからは同じに見えるように作ることができる。そのために必要なのは、画素のレベルでの結合定数を調節しておくこと。遠くから見たときの結合定数が実験値と合うように、画素の理論での結合定数を決めておく。その値は画素の大きさに依存してもよい。なにしろ小さな画素など見えない(実験では測れない)のだから気にする必要はない。
量子色力学でも同じことだ。クォークの色電荷の大きさ(つまり結合定数)は、この理論を定義したときの画素の大きさによって変わる。遠方に行けば色電荷の自己増殖が起こるが、その結果として実験で測定できる距離では実験値に合うように調節する。画素がをどんどん小さくしていくと、そのときの結合定数をその分小さく調節しておかないと実験と合わない。つまり、クォークのもつ色荷(=結合定数)は決まったものではなく、画素をどう選ぶかに依存する量だということになる。おかしな話に聞こえるだろうか。だが、こう考えないとつじつまが合わないのだ。
では逆に、画素の大きさを固定し、したがってそのときの結合定数を固定し、遠距離での色電荷の増幅具合を距離を変えながら見てみることにしよう。実験では、例えば陽子を外から電子でたたく実験を考えればよい。電子のエネルギーが大きいときは短距離、小さいときは長距離に相当する。この測定で得られた結果は、結合定数が確かに距離に依存することをしめしている。短距離では小さく、距離が大きくなるほど大きく、つまり結合が強くなる。漸近自由性というこの性質は、実験で精密に検証されたと考えてよい。
「走る結合定数」の意味をイメージしていただけただろうか。場の量子論の勉強では、ここまで理解が進めばひと山越えたと思っていいのかもしれない。だが、山はまだまだ続く。量子色力学は、距離を大きくしていくと何が起こるか。ここで大きな距離とはフェムトメートル。原子の世界の微細さを意味するナノメートルよりもさらに6桁小さいが、量子色力学の世界ではこれを長距離と呼ぶ。フェムトメートルの距離では無限に大きくなる量子色力学の結合定数は、ここからまったく違うことを起こすことになる。クォークの閉じこめ、カイラル対称性の破れなどだ。これまで量子色力学はくりこみ可能な理論だということを強調してきたが、距離によらないはずのこの理論は、フェムトメートルに至って似ても似つかないものに変わる。本当の問題はここからだ。