真空の誘電率?

私の職業は一応物理学者ということになっているが、正直に白状しよう。電気回路が苦手だ。コイルにはインダクタンスがあって単位はヘンリーだと言われるともうお手上げで、ちっともイメージがわかない。電磁気学という科目で扱われるはずなのだが、そこだけ飛ばしてしまった私にとって、回路は不思議なマジックか何かに見える。あまりに複雑すぎてついていけないのだ。

誘電体というのは何のことかご存知だろうか。私も正確な定義は知らないが、要は電気を通さない物質のことだ。物質のなかの電子が、自分の家(つまり原子のこと)に閉じこもって動き回れないような構造をもつもののことをいう。そんな物質に外から電場をかけるとどうなるだろうか。電気は流れない。ただ、個々の原子のなかで負の電荷をもつ電子が正極のほうに引っ張られるのは変わらない。それでも原子を超えて動くことはできないので、少しずれるだけだ。原子核を中心とする球形の軌道から少しだけずれた電子は、原子核の正電荷を正確に打ち消すことができなくなり(こういうのを分極という)、おかげで小さな電場ができる。外からかかった電場を打ち消す方向に。完全に打ち消すには至らないものの、電場を小さくするわけだ。

物質のなかに置いた電荷がつくる電場は、こうして少しだけ弱められることになる。宇宙がすべてこの物質でできていたら、もともとあった電荷が小さくなったように見えるに違いない。電磁気学のほかの性質は変わらず、電荷だけを小さくしておけばいい。どこかで聞いたような話ではないだろうか。そう。これまでに紹介してきた「くりこみ」の考え方と同じだ。物質のなかで起こるややこしいことは、すべて電荷の大きさにくりこんでしまうことができる。電場がどれだけ弱められるかは物質によって違うので、くりこみの大きさは物質によって異なる。この大きさのことは誘電率と呼ばれる。私にとって誘電率とはくりこみ定数だ。

屁理屈だと思われるだろうか。私たちは真空という何もない空間があって、基本法則はそこで定義すべきことを知っている。電子の電荷はそこで測って決めるべき量だ。物質中の電荷のくりこみなんて考えてどうするつもりだ。だが、ちょっと待って。真空が分極しないと誰が決めた? 量子電磁力学では真空から電子と陽電子の対が勝手に生まれては消えるのを繰り返している。この電子と陽電子は、物質中の電子と原子核と同じように分極を起こしてもいいではないか。おかげで外から与えた電場は本来の値よりも小さくなるだろう。この効果はやはり電荷を小さくする方向にはたらく。電荷は真空中でも「くりこみ」を受けるわけだ。

電磁気学には「真空の誘電率」という奇妙な用語が出てくる。この用語を考えた人が量子電磁力学のことを念頭に置いたのかどうかは知らないが、この用語は奇妙ではなく、実際に起こっていることをあらわした実に適切なネーミングだと言ってもいいと思う。

真空の誘電率は、真空からどれだけ電子と陽電子がくみだされるか、その大きさによる。量子電磁力学を使えば計算できて、その大きさは無限大。そう、ここでは本当に「くりこみ」が必要になる。どう扱えばいいかは読者にはすでにおなじみだろう。その効果も含めて電荷の値を再定義するだけだ。物質がある場合とない場合、それらは驚くほど共通している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?