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小林・益川理論50周年

2023年、今年は小林・益川理論が発表されてから50年の節目にあたる。素粒子物理のなかで、いわゆるフレーバー物理と呼ばれるものはここに起源があると言ってもよいくらいなので、私も含め関係する研究者にとっても大きな節目の年になる。私の勤める研究所でも2月には記念するシンポジウムを開くことになっており、招待した(ほとんどが海外の)研究者の多くはほぼ二つ返事で承諾してくれた。この間の進歩に多少なりとも貢献してきた理論家や実験家にとっては感慨深いものがあるのではないだろうか。(なお、一般向けの講演会も別途企画されている。小林先生の講演もあるとのこと。関心のある方はぜひ。)

小林・益川理論は物質と反物質の非対称性という文脈で解説されることが多いが、関係する研究は研究者目線ではもっと泥臭いものだ。どういうことか、少し紹介してみたい。

混ざるクォーク

素粒子の世界がこんなにもややこしいのは、素粒子に「世代」があるせいだ。自然界にあるすべての物質はアップクォークとダウンクォーク(と電子)でできているのだが、自然界にはどういうわけかこれらに似たクォークがあと2セット存在する。1つ目のセットはチャームクォークとストレンジクォーク。これらはアップとダウンにくらべてずっと重いので放っておくとすぐにアップとダウンに壊れてしまって現在の宇宙には残っていない。2つ目のセットはトップクォークとボトムクォーク。これらはさらに何倍も何十倍も重い。こういう質量のパターンがどうしてできているのかは誰も理解できていないが、とにかくそうなっている。

こうして3つのセットになっているクォークだが、こういうセットに分けるのには理由がある。アップとダウンクォークは弱い力を通じて互いに移り合う。ベータ崩壊と呼ばれる遷移がその典型例で、弱い力はアップからダウンへ、あるいはダウンからアップへの粒子の遷移を伴う。同様にチャームとストレンジはセットになっており、トップとボトムもそうだ。そこまではすっきりしているが、話はここで終わらない。実はこの説明は不正確で、弱い力のはたらくクォークのペアは上記のすっきりしたペアとは少しだけずれているのだ。

面倒な話になってきた。アップクォークが弱い力で移り合うペアは正確にはダウンクォークではなく、そこに少しだけストレンジクォークが混ざったものになっている。チャームクォークも同様で、相手側はストレンジだけでなくダウンクォークが少し混ざっている。こうなっているおかげでストレンジクォークは弱い力を通じてアップクォークに遷移、つまり壊れることができる。(チャームクォークはストレンジよりも重いので自然にそちらに行くわけにはいかない。)この混ざり具合を角度であらわすと、混ざってないときを0度としたとき、約13度になっている(カビボ角と呼ばれる)。1対1で混ざると45度なので、13度は無視できない大きさだ。

この話をもっと面倒にしたのが小林・益川理論だ。ダウンクォークが混ざる相手はストレンジクォークだけではない。ごくわずかだがボトムクォークも混ざっている。混ざり具合はストレンジのさらに数分の1。同様にチャームクォークの相手も主なものはストレンジだが、そこにダウンが少し混ざり、さらにボトムがわずかに混ざる。おかげで、ボトムクォークはチャームクォークに壊れることもできるし、確率は小さいがアップクォークに壊れることもある。

3つの世代のクォークの間の混合。2つの世代(ダウンとストレンジ)のときに13度だけ傾いていると述べたが、3つの世代になると今度は3つの軸、つまり3次元空間での微妙な傾きと解釈できる。その角度をあらわしたのが小林益川行列という3行3列の行列で、基本的には軸の組み合わせごとの3つの角度を含んでいる。それにもう一つのパラメータ。それこそが、物質・反物質の非対称性に関係している。

CP対称性の破れ

小林・益川理論の枕詞として「CP対称性の破れ」が出てくる。「C」とは粒子と反粒子を入れ替える変換のこと、「P」は右と左を入れ替える変換のことだ。弱い力が「P」変換を破ることはわかっているので、「C」と「P」を組み合わせた「CP」変換も当然破れていそうなものだが、そうはなっておらず、「CP」変換では弱い力の法則はほとんど対称だということが実験的にわかっている。「ほとんど」というところがミソで、実験によればごくわずかな破れが見られる。これは一体どうしたことか。そこが問題になる。

ついでながら、場の量子論の枠組みでは、時間反転をあらわす「T」変換を組み合わせた「CPT」変換に対して(まともな理論なら)対称にならないといけないというのがわかっているので、「CP」対称性の破れは時間反転対称性の破れと言い換えることもできる。

さて、小林益川行列は3行3列の行列になっているが、正しくは複素行列、つまり各要素が複素数になっているような行列だ。複素数がいっぱいあらわれるとややこしいので、通常は小林益川行列が実数になるように関係するクォーク場を再定義する。2行2列(ダウンとストレンジの混合)の場合はこうして完全に虚数を排除することができて結局は混合角1つ(カビボ角)だけで表される簡単な表示になるのだが、3行3列(ダウン、ストレンジ、ボトム)ではそれがうまくいかず、3つの混合角に加えて虚数(あるいは複素位相)が1つ残ることがわかる。この虚数こそ、物質と反物質にはたらく法則の違いを生むことになる。

なぜ複素位相が物質・反物質の違いをあらわすことになるのか、それを理解するには量子力学の作りを知る必要がある。量子力学に出てくる波動関数の時間発展はエネルギーに応じた複素位相の回転として表される。時間を進めると(例えば)時計回りに複素位相が回転するが、時間を逆に戻すと反時計回りになるという具合だ。時間を逆向きに進む粒子は反粒子と解釈できるので、粒子と反粒子は複素位相の回転の向きで区別されることがわかる。

素粒子の基本法則は、ほとんどの場合この位相回転を逆向きにしても同じようにはたらくようにできている。唯一の例外が小林益川行列がもつ複素位相で、この分だけ粒子と反粒子を入れ替えたときの対称性が壊れている。だとしたら、小林益川行列のもつ複素位相こそ宇宙に物質だけがあって反物質が消えてしまったミステリーの鍵を握るのではないか。そう思いたくなるではないか。実際には、小林益川行列だけではこのミステリーを解決できそうもないということがわかっている。

大胆な仮定

小林・益川理論は、3つの世代のクォークが混合するという仮説をとることによってCP対称性の破れを説明する可能性を示したものだった。理論の発表当時は3つ目の世代は発見されていなかったので、これは大胆な仮定だった。

当時発見されていたCP対称性の破れは、ストレンジクォークを含むK中間子の崩壊パターンに関するごく小さな異常であった。ストレンジ・クォークに対して新たな法則(第5の力?)を導入して説明することも試みられた。小林・益川理論を知る現代の見方では、ストレンジクォークの見せるわずかな異常は次のように説明される。ストレンジクォークは、量子効果を通じてごくわずかな時間だけ3つ目の世代のトップクォークに仮想的に遷移し、またすぐにダウンクォークに戻ってくるような過程を経ることがある。トップクォークは非常に重いのでこういう過程が起こる確率は非常に小さい。しかし、この過程を通じて小林益川行列のもつ複素位相が入り込み、これこそが実験的に知られていたCP対称性の破れを説明してくれる。

新しい法則ではなく新しい粒子(3世代目のクォーク)を仮定するという、小林と益川の大胆な賭けは吉と出た。その後、3つ目の世代のクォークが発見され、その混合の度合いが測定されるにつれ、すべての実験事実は小林益川行列を使って説明することができることがわかってきた。小林・益川理論は、こうして素粒子標準模型の確固たる枠組みの一部として確立されることになったのだ。

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