有効理論ふたたび
素粒子理論を学ぶものにとって、ワインバーグの場の量子論の教科書は六法全書のようなものだと言ってもよいのではないか。仲間内でどんなに議論が白熱したとしても、「ほら、ワインバーグにこう書いてある」と言われたらゲームオーバー。さらに深いことまで含めてちゃんと書いてあるので、ため息をつきながら読むしかなくなる。
めちゃくちゃに沸騰するグルーオン、そこにからみつくクォーク。それが量子色力学での「自発的対称性の破れ」の正体だ。前回はそういう話をした。こんなことは教科書にはあまり書いてない。あまりにややこしい話で、ちゃんと計算するにはシミュレーションに頼ることになる。自分で計算を追うわけにいかないので教科書にのせてもお話だけになってしまうせいだろうか。お話を読むだけでは理解した気にはならない。そういうわけで、素粒子の専門家にとっても量子色力学の真空はなかなかイメージしがたいものになっている。
イメージできないだけではない。量子色力学の真空状態はこれ、という波動関数を数式で書き下した人はいない。それもそのはず。空間のいたるところで生まれては消え、沸騰するグルーオン場のある瞬間のスナップショットが一つの波動関数に相当し、真空は、そういう無限個の波動関数の重ね合わせになっているはずだ。どういう数式になるのか想像することすら難しい。だからシミュレーションでは波動関数を作ることは放棄し、そのなかでのいろんな相関関数の期待値を近似的に求めることに注力する。無限個を重ね合わせるのはあきらめて、いくつか代表的なものだけを取り出してその平均で近似するわけだ。こういうのをモンテカルロ法といい、多くの場合は必要なものが計算できる。
数値計算とか面倒くさいことは全部スキップして、何か言えることはないか。それがある。物理学のすごいところだ。今回はそういう話をしてみたい。
もともとあった対称性が真空に沈殿したクォークのおかげで壊れたというのは認めることにしよう。おかげで出てくる軽い粒子はパイ中間子だけだったとしよう。これらの事実だけを使って理論を組み立てることができないだろうか。それをやったのはワインバーグで、カイラル有効理論という。対称性があったという事実は、パイ中間子の場がとりうる値がワインボトルの底のように円の周上(あるいは球の表面上)に分布するという形で表現することができる。場の理論なので空間の各点にこのワインボトルがあると思えばよい。この理論のすごいところは、これだけを決めてしまうと、そこに出てくる粒子(パイ中間子)の相互作用の形が規定されてしまうという点にある。パイ中間子の相互作用は、こうして対称性による制限で決まってしまう。あとはそれが実験と合うかどうかだ。そして、審判の結果は合格。自然はちゃんとそうなっている。
ただ問題は残る。この対称性がそもそも厳密ではないこと。クォークがもともと持つ質量のおかげで、対称性は微妙に破れている。幸運なことに、この破れ具合も先のパイ中間子の理論を使って表現することができる。わかるのは、パイ中間子の質量の2乗がクォーク質量に比例するということ。逆に言うと、クォークの質量はここから評価することができる。
もう一つの問題は、この理論にはいくらでも補正項が存在しうること。制限は対称性だけなので、それを満たす限りどんなややこしい相互作用を付け加えてもよい。ただし、ややこしい相互作用は低エネルギーでは効かないことがわかるので、この理論はエネルギーによる展開でできているといってもよい。低エネルギーでは強い制限がはたらくが、高エネルギーでは多くの補正が効いてきて、理論としては予言能力がなくなる。
こういう理論の枠組みは「有効理論」と呼ばれる。くりこみ理論の話をしたときにも出てきた。パイ中間子で使える理論はカイラル有効理論というが、1次や2次の補正項も含めて実験と合うことがわかっている。この理論がちゃんとクォークの理論、量子色力学、から導けるかというと、これはやはり難題で、冒頭の問題に戻る。量子色力学はやはりややこしすぎるのだ。
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