「くりこみ」の気持ち

Renormalization(再規格化)を「くりこみ」と訳したのは朝永振一郎だと聞く。いや、訳したのではないだろう。何しろ彼が創始者なのだから。それにしても「くりこみ」という言葉の魅惑的な響きはどうだろう。それだけで深遠な真理を語っている気がするのは私だけだろうか。無限大になってしまうパラメタを「再規格化」するには違いないのだが、「くりこみ」と呼ぶ方がしっくりくる。いろんな量子効果をパラメタに取り込む様子が表されている感じがすると言えばいいだろうか。まあどっちでもいいのだろうが。

素粒子の標準模型は「くりこみ可能」な理論でできている。計算するといろんなところに発散が出てくるが、それらはすべて理論に出てくる電荷や質量などのパラメタに押し込んでしまうことができて、そうして計算した散乱確率などの実験で測れる量はすべて有限になる。逆に「くりこみ不可能」な理論だと、もっといろんなところに発散が出てきて、少しくらいパラメタを再定義しただけではどうにもならない。そんな理論では使いものにならないので、素粒子の理論が「くりこみ可能」になっているのは必要なことではある。だが、ここにはもう少し深い話があって、我々が見ている物理現象は「くりこみ可能」な理論でできているのはごく自然な話なのだ。今回はそういう話をしてみよう。

電磁気学は距離を変えても法則自体が同じ形をしているという話をした(「拡大しても変わらない」を参照)。クーロン力は電子の近くでも遠くでも同じように逆2乗則になっている。このことこそが、くりこみ可能な理論の大きな特徴だ。まずは短距離から考えてみよう。

前回、「くりこみ群とは」では、ごく小さな画素をならべてつくった量子電磁力学を考えた。連続的な空間を模すためには、画素を非常に小さくしておく必要がある。それでも有限の大きさなので、いろんな量子効果を計算しても発散することはない。さて、いまは十分に遠距離での現象に興味があるとしよう。画素はこんなに小さくなくてもよい。だから、もとの小さな画素よりも10倍大きなものを使ったほうが節約になるではないか。この「節約版」量子電磁力学は、もとの理論とどう違うだろう。前回紹介したのは、こうして画素の大きさを変えると電子の電荷や質量を調節しておかないといけないということだった。逆に言うと、それだけでもとの理論と「ほとんど」同じ結果が得られる。

電荷を調整さえしておけば、欲しかった量子電磁力学が得られるならすばらしい。だが、画素をならべてつくった理論では、それだけではすまない。画素が見えるくらい近づくと、欲しい連続的な空間の理論との違いが当然見えてくるはずだからだ。画素の大きさ$${a}$$、測定したい現象がおこる特徴的な大きさを$${l}$$と書くことにすると、この違いは$${(a/l)^2}$$くらいの大きさになる。近づく($${l}$$が小さい)と大きくなり、逆に遠ざかる($${l}$$が大きい)と見えなくなる。

当たり前だと思われるだろうか。ここで重要なのは、画素を並べてつくった量子電磁力学は一つではなく、いろんなものが考えられるということだ。画素は四角かもしれないし六角形かもしれない。もっと変な可能性を考えてもよい。どんな変な画素の理論から始めても(ある条件さえ満たしていれば)遠距離では同じ量子電磁力学が得られる。私たちは宇宙がどんな「画素」でできているのか知らないことに注意しよう。ごく近距離での理論の構築は、ある程度適当にやっても大丈夫。どうやってもちゃんと正しい理論が作られる。

こうして得られた量子電磁力学は、くりこみ可能な理論になっている。くりこみ可能な理論は「拡大しても変わらない」ような理論のことで、だからこそ遠距離で生き残る。それ以外の(画素によってできるような)ゴミは、この「拡大しても変わらない」という性質をもたない。そう考えてみると、人類が見つけた素粒子の基礎理論がくりこみ可能なのは当然に思えてこないだろうか。これはつまり、我々が十分に近距離を見ていないせいで、詳細がわからないだけの話だ。

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