トンネルを抜けたらそこは... 走る結合定数とは

大学に入ったらまず学ぶ数学のテクニックにテイラー展開というのがある。関数をある点の近くで多項式で近似する。その点のごく近くでは1次式でも十分よい近似になる。少し離れたら2次式にしないといけない。そういう話だった。初めてこれを学んだとき、それのどこがうれしいのかちっともわからなかったのを覚えている。何しろ、元の関数を知っているのだ。そのままでちゃんと計算できるのに、わざわざ精度の悪い計算をしてどうするんだろう。

少し進んで量子力学を勉強したときもそうだった。シュレーディンガー方程式の解き方をいくつか学んだあと、今度は摂動法というテクニックを学ぶ。面倒な展開をくりかえして、近似的にエネルギー準位を計算する。これもある種のテイラー展開だ。何でこんなことをする必要があるんだろう。だいぶ後になってわかったのは、実際の問題ではちゃんと解けることは稀で、ほとんどの場合は摂動法に頼らないと仕方ないということだった。理論物理の研究の日常とは、手を変え品を変え、あちらからこちらからテイラー展開を試すことかもしれない。

量子色力学という大きな壁

素粒子物理が難しいのは、かなりの部分、量子色力学がやっかいなせいだ。摂動計算すら非常に面倒なのだが、仮にできたとしてもそれで計算できることは非常に限られる。計算できないことについては、そんなものだと認めて先に進むしかないが、それは気持ち悪い。これまで、クォークのつくる色電場が自己増殖するという話をしてきた。これは、摂動計算によってその最初のところが理解できる現象だ。これを繰り返して最後はクォークの閉じこめという現象が起こる。これは摂動法ではわからないので、別のもっと面倒な方法を考える必要がある。格子ゲージ理論というのを使えば、量子色力学の結合定数が無限大になる極限から始めて展開することもできる。これである程度理解できるが、しかし両者は本当につながっている一つの理論のはずだ。本当だろうか。ここにはまだ大きなギャップがある。このギャップがあるせいで、なかなかわかった気がしないのは無理もないのだ。

歴史的にも物理学者たちは大変な苦労をしてきた。陽子や中性子に続いて次々と見つかる素粒子。何十個も出てきて途方に暮れ、分類には成功するものの、それらの反応を計算することはほとんどできない。ブレークスルーは別のところからやってきた。高エネルギーの電子で陽子を叩いてみた結果、その中には自由粒子がいることがわかったのだ。この自由粒子こそクォークであり、それを支配する法則が量子色力学だというわけだ。具合のいいことに、この理論を調べていくと、高エネルギー、つまり短距離での自由粒子性、そして長距離での閉じこめが組み込まれているらしい。その中間でどんなややこしいことが起こっているのかに目をつむれば、これは願ってもない理論だ。

走る結合定数?

その中間はいったいどうなっているのか。結局難しいものは難しいのだが、ある程度わかることもある。それもやはり摂動法で。

以前、くりこみ可能な理論とは、距離のスケールを変えても同じに見えるような理論のことだという話をした。量子色力学もくりこみ可能な理論になっている。理論のなかには特定のエネルギースケールを指定するようなパラメタは存在しない。(実はある事情で後から現れるのだが、それはまた次回以降の話題にしておこう。)存在するのは、量子色力学の結合定数、ただ一つだ。距離のスケールを変えると何が起こるのだろうか。

ここでスケールを変えるとは、何を意味するのだろうか。量子論の一般的な原理にしたがって、短距離は高エネルギーを意味する。したがって、距離のスケールを変えるのは、反応のエネルギーを変えることに相当する。具体的には、陽子を叩くのに使う電子のもつエネルギーを変えればよい、より高いエネルギーの電子を使えば、より短距離の反応を起こすことができる。電子が陽子の中のクォークを叩いて弾き飛ばすとき、そのまわりの色電場もクォークと一緒に飛ばされる。色電場がクォークにどれだけ強く結びついているかを決めるのが結合定数だ。これはなにしろ「定数」なので、本来は一つの数ということになる。0.1 とか 0.2 とかいう数だ。どんなエネルギーで叩こうが、数は変わらない。それだけのことのはずだ。

ところが、結合展開に関する摂動展開の高次項を考えると話は変わってくる。色電場は自己増殖を起こす。色電場がまた色電場を作る。この過程が、摂動展開では次の次数に相当する。さらにまた色電場ができ、遠くに離れれば離れるほど増殖していく。遠くに離れれば…、そう。エネルギーが低くなるほど増殖していく。逆に高エネルギーではその効果は小さい。

それはおかしいではないかと思われただろうか。くりこみ可能な理論は、距離のスケールを変えても同じ理論のはずなのに、色電場の強さが距離によって変わるとは。だが、実際にそうなっているのだ。摂動展開の言葉では、高次を考えるとエネルギー、あるいは距離、に対する依存性があらわれる。それをあらわすのに使えるパラメタはただ一つ。結合定数だ。つまり、結合定数はエネルギーに依存して変化しないといけない。エネルギーに依存して動く結合「定数」。このことを「走る結合定数」と呼ぶ。陽子を電子で叩く実験でも、確かに「走る」ことが確認されている。次回は、もう少し詳しく考えてみることにしよう。

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