アノマリーはどこへ
あたりまえの日常がもどってきた気がする。先月は地元で研究会を主催(小林・益川理論50周年を記念する国際シンポジウム)、そして今月はアメリカの研究会に参加している。まだ冬の空気がのこるニューヨーク郊外。ストーニーブルック大学にある研究センターには、出資者であるサイモンの名が冠されている。トポロジカルな場の理論、チャーン・サイモン理論で知られる数学者のサイモンさんは、数学を金融に応用して巨万の富をこしらえ、財団を起こして基礎科学を支援しているのだという。この研究センターは、長短さまざまな研究会を主催して世界中から多くの研究者があつまる。オンラインのセミナーや研究会は便利ではあるが、友人たちに久しぶりに会ってみると全然違うというのがよくわかる。発表を聞いて新しいことを学び、他の参加者がどう考えているかを知ることもできる。帰りの飛行機ではこれから自分が何をすべきか、できるかを考える。これがいつものサイクルなんだった。
今回参加している研究会には「アノマリー」という名前が冠されている。素粒子物理の世界では、アノマリー(日本語では「異常」)は、標準模型からずれた実験結果のことを指すことが多い。素粒子標準理論の枠組みが確立してからすでに半世紀が経とうとしている。この間、標準模型は数多くの実験で確認され、精密な検証をくぐりぬけてきた。ダークマターを含んでいないなど未解決の問題があるにもかかわらず、標準模型自体は非常によい精度で成り立っているのはなぜか。実はどこかにほころびがあり、それが究極の理論探索の糸口になるのではないか。そんな期待から多くの実験が企画・建設・実行されてきたが、そのほとんどは標準模型の正しさをよりよい精度で確認することになってしまった。いくつかの例外を除いては。
その例外、アノマリーが何を示唆しているのか、他にはどこを探せばいいのかをじっくり議論する。今回の研究会が企画されたときの意図はそういうことだったはずだ。ところが、1年ほどして実際にあつまったタイミングでは思いもかけないことになっていた。もっとも手堅いと思われいたアノマリーは消え、もう一つ注目されているアノマリーは混沌としてきた。いったいどういうことか。今回はそのあたりを紹介してみよう。
レプトンフレーバー普遍性の破れ
もっとも手堅いと考えられていたアノマリーは、レプトンフレーバー普遍性の破れと呼ばれるものだ。B中間子の崩壊のなかには、量子効果をによってしか起こらないものがある。その代表的なものが、ボトムクォークがストレンジクォークに変化するもので、そういう過程は小林・益川理論のなかには本来含まれておらず、ボトム→トップ→ストレンジという2段階の過程を経る必要がある。トップクォークは重すぎて実際には生成されず、仮想的に生成されるだけだ。量子論では許されるこうした過程は起こりにくい。つまり稀な事象となる。一方で、量子効果のなかに未知の粒子が隠れていたらそれも合わせて測定されるので、標準模型からのズレとしてあらわれることになる。
レプトンフレーバー普遍性の破れというのは、ボトムクォークがストレンジクォークに変化するときに付随して出てくるレプトン対(電子・陽電子対、あるいはミューオン・反ミューオン対)に関するものだ。標準模型では、電子・陽電子対とミューオン・反ミューオン対の生成はほぼ同じ確率で起こることが期待される。ところが、LHCb実験で測定された結果は、ミューオン対が有意に少ないというものだった。比をとると、誤差を考慮しても1からずれている。誤差の3倍くらいだから偶然ではない。これはどういうことか。
B中間子の崩壊にあらわれるこうしたアノマリーの多くは、慎重に解釈する必要がある。実験データはいいけど、対応する理論計算は大丈夫か。クォークを含む過程は強い相互作用のおかげで計算が難しい。信頼できる計算には格子QCDによる大規模シミュレーションが不可欠だが、それにも得手不得手がある。実際にはちゃんと計算できる量は少ないので、実験データと標準理論の予言がずれていても、理論の不定性のせいなんじゃないの、ということで強いことは言いにくい。ところが、今回のレプトン普遍性の破れは、電子とミューオンの比を見るので理論の不定性はほぼ完全にキャンセルして結果に影響を与えない。予言が「1」だというのはそういうことだ。そんな確実なものがずれている。これは標準模型を超える何かを強く示唆しているに違いない。みんなそう思っていた。
ところが、昨年12月におこなわれたLHCbグループの発表によってすべてがひっくり返ってしまった。新しい実験結果は、ほぼ「1」。標準模型とばっちり一致する。いったいどうしてしまったのか。誤差の何倍もずれていたのではなかったのか。実験グループによる解説はこうだ。これまでは電子とパイ中間子を区別するやり方が不十分で、別の事象を電子・陽電子対としてカウントしてしまっていた。両者は高エネルギーでは似た信号になることがあるので注意して区別する必要がある(あるいは誤差をつける)。新しい解析では信号の選び方を少し変えてみたら結果が大きくずれた。これはまずいというので詳細に調べ直したところ問題が発覚したということだ。
実験チームが間違いを認めたので是非もない。「クリーン」な結果として期待されていたアノマリーは公式に消えた。(同じことは、以前も一度紹介した。)
ミューオン異常磁気能率
ミューオン異常磁気能率については、フェルミ国立研究所で新しい実験結果が出たのに合わせて紹介したことがある。その時点ですでに混乱した状況だったのだが、最近になってこれがさらに混沌としてきた。どういうことだろうか。
こちらは異常磁気能率の測定ではなく、理論計算のほうにややこしい問題があった。量子効果のなかにクォークが入ってくるものは、例によって強い相互作用のおかげで計算が難しくなる。最近は格子QCD計算も進歩してきたが、これまではずっと実験データを使って量子効果を評価するということがやられてきた。電子と陽電子の衝突からクォーク・反クォーク対を生成する過程をすべて合わせればミューオン異常磁気能率にたいする量子効果を評価することができる。いくつかの実験データをインプットとして得られた量子効果を使うと、ミューオン異常磁気能率の結果は理論の予言とは合わない。つまり、アノマリーがあるということになる。ところが、ここに格子QCD計算を使うとアノマリーの度合いはずっと小さくなる。つまり標準模型のほうが実験値のほうに歩み寄ってくる形になる。どちらが正しいのか、もっと詳しく調べなければ… 、というのが最近までの状況だった。
それが大きく変わったのは先月半ばのこと。電子陽電子衝突の新しい実験データがロシアのCMD-3というグループから出てきた。その結果は、驚くべきことにこれまでのすべての実験結果と食い違っており、その値を信じるとミューオン異常磁気能率からアノマリーは消えることになる。いったいどうしてしまったのか。
だが、そう短絡的に結論にすすむのは危険だろう。なにしろ同種の実験が互いに矛盾しているのだから。これまでも似たような矛盾はあった。イタリアのKLOE実験とアメリカのBaBar実験の結果は有意にずれていたのだ。いずれの実験も目に見えておかしいところはない。仕方ないので、両者の結果を含むような大きな誤差をつけてミューオン異常磁気能率への補正を出していたのだが、今回のCMD-3はそのいずれからもはるかにずれている。あまりにズレが大きいので目をつぶって平均値を求めるのもはばかられる。まずはズレの原因を理解しないことには話が進まないではないか。それなのに、この論文では詳しいことがわからない。詳細を確認しようにも相手はロシアにいて、研究会にも出てこられない… 。
そういうわけで、ミューオン異常磁気能率のアノマリーの命運は、それ自身とは別の実験および格子QCD計算に握られることになってしまった。KLOE, BaBar を含むこれまでの実験、それと合わないことで問題になっている格子QCD計算、さらに混乱のタネを増やしたCMD-3。これらが三つ巴となって研究が進む一方、フェルミ国立研究所のミューオン異常磁気能率の測定も順調に進んでおり、今年の夏までにはより精度の高い結果が発表される予定だという。いったいどこに落ち着くのか、いまのところまったくわからない。
素粒子物理におけるアノマリーは、これまで現れては消えるのをくりかえしてきた。今回もレプトンフレーバー普遍性の破れは消え、ミューオン異常磁気能率のほうは混沌。1年前とは見えている景色が一変してしまった。研究というのはこういうものかもしれない。