芥川賞受賞作「ハンチバック」を読んだ話
今回は、芥川賞にも選ばれた作品「ハンチバック」を読んだ書評のようなものです。本自体は数日前に真・三國無双の攻略本を眺めていたのですが、小説に限ると高3の時に吉川英治の三国志を読んでいたのが最後なので、そのブランクから着眼点にズレが生じているかもしれませんがご了承ください。それと、ネタバレには全く配慮していません。
例えばNHKの取材記事では、読書に関してのバリアフリーが全く進んでいないことが作品のメインとして扱われていました。1975年、図書館の視覚障害者向け録音サービスに文芸界がクレームを入れた「愛のテープは違法」事件はその象徴として扱われています。読後に色々な取材や書評を漁ってみると、「ああ、そういう物語だったのね」と自分のミスリードを恥じ入るばかりでした。
私の感性は時々結構ズレていますが、それでも読了後のレポートとしてこれを投下していこうと思います。関係ないですが、映画「はざまにいきる、春」のことは恋愛映画ではなく、本来の彼氏をよそにASDの画家へ心惹かれていく様子を、アクションやホラーの文脈で観ていました。私の感性とはそういったものです。
「中絶する」という最後の願い
主人公の井沢釈華(いざわしゃか)は、先天性のミオパチーと側弯症(そくわんしょう)により、人工呼吸器と電動車椅子の欠かせない重度の身体障害者です。この基礎設定は著者の市川沙央(いちかわ・さおう)さん自身の身体特性と一緒で、市川さんはNHKの取材に「自身の体験を作品に盛り込んだのは3割程度」と答えています。
主人公は、親の遺産として莫大な金と、マンション一棟を丸ごと改装したグループホーム「イングルサイド」を相続しており、そこに住んでいます。経済的な不自由はありませんが、莫大な財産の使い道もなく、収入の大半を寄付に回しています。そして限られた行動範囲で社会との紐帯を保つため、大学の通信課程を受講したりWeb上の官能小説を納品したりして生活しています。
「間違った設計図」で生まれた主人公には、「妊娠して、中絶する」という夢があります。自分に子を産み育てることは出来ないが、せめて妊娠するところまでは他の健常者に追い付きたいという想いがあり、それが屈折して中絶への野望となっています。
しかし、その歪んだ野望は社会も望んだことだと主人公は語ります。「障害者を産みたくない女性団体と、殺されたくない障害者団体の戦い」に言及しつつ、「障害者である私が妊娠するだけして中絶する。これでバランスが取れているのではないか?」と詰っています。そういえば、「障害者の性」もこの作品のメインテーマとして語られていましたね。
「性悪な姑」を共犯に誘う
作中のグループホームには「田中さん」という男性職員が勤務しています。田中は不愛想なだけでなく、経済的に困らない主人公への僻みからか嫌味ばかり言ってくる人間です。ただ、主人公はそれに耐えるでも悲しむでもなく、「34歳の155cmで私より10cm小さく、自称『弱者男性』で『インセル』である」と分析しています。ついでに、高額な包茎手術の類を施されているようで、見栄っ張りな一面も示唆されています。
よりによって主人公は、その田中に中絶の夢を託そうとします。というより、共犯を募る感じです。金が貰えるなら1億欲しいと嘯く田中に、「身長1cmあたり100万円を健常者の価値として、1億5500万円くれてやる」と意趣返しも込めて小切手を見せつける場面はなかなか豪快でした。
意外にも、或いは、「人は手の届くところにしか憎悪を向けない」という主人公の読み通りか、田中はその誘いに乗ります。主人公の歪んだ夢を叶える為の“逢瀬”は結局のところ失敗に終わり、しかもこれが原因で主人公は誤嚥性肺炎となり「肺の中に住むネズミ」が居なくなるまで入院を強いられます。
田中は一度だけお見舞いに来て相変わらず嫌味を飛ばしますが、1億5500万円の小切手には触れていないと主人公は見抜きます。そして主人公は「金の事だけ考えていればいい」「もっと邪悪であってほしい」と懇願します。やろうと思えば小切手だけ盗んでいくことも出来たと、地の文でも主張しています。
そんな思いも空しく、田中はグループホームを退職してしまいます。その理由は、逢瀬の事を知らない他の人々はおろか、神の視点を持つべき読者にすら明らかにされていません。1億5500万円の小切手は部屋の引き出しに残ったままです。不愛想で嫌味な田中という男は、邪悪に振り切ることなくフェードアウトしており、この去就にはかなり意外性があります。他の作品に当てはめると、「さとくんが粛々と退職する『月』」「地域住民が一斉に夜逃げする『梅切らぬバカ』」のようなものです。
あれほど「性悪な姑」として君臨し続けた田中は、とても静かに主人公のもとを離れていきました。取引は不成立という意味なのか、「武士は食わねど高楊枝」とばかりに彼なりの矜持があったのか、単にいびり甲斐がなくなったのか、田中の去就には考察の余地が大いにあります。
htmlタグのないエピローグ
作品のオープニングは主人公が納品する小説から始まっており、エピローグでも主人公が書いたと思しき小説で締められています。しかし、両者の演出には決定的な違いがあります。
オープニングの小説にはhtmlタグがついており、次に納品する原稿として扱われています。言い換えれば、主人公が世界に産み落とすことが確定している訳です。対してエピローグのそれにはhtmlタグがありません。これも納品して世界に産み落としたのか、はたまた世に出すことなく“中絶”したのか、その後は読者の解釈に委ねられて終わります。
エピローグの小説には、主人公や田中のごく小さな要素が散りばめられています。小説家である主人公がこのような小説を書くのは、いわば田中との間に妊娠した赤ちゃんの代わりでもあるように思えます。その「赤ちゃん」には、産み落とされるための儀式である「htmlタグ」がついていません。
小説を敢えて世に出さないことで“中絶”するのか、或いは、小説なら産めると考え直してhtmlタグを付けて納品するのか、オープニングと全く違うオーラを帯びた「わが子」の運命は中絶の方が優勢そうです。最後の最後は「人間であるために殺すだけの命を孕む」で締められていますので。
参考サイト
HTML要素一覧
芥川賞 市川沙央さんに単独インタビュー 受賞決定作への思いは
『愛のテープは違法』から35年、ついに認められた図書館での録音図書サービス
この記事は障害者ドットコムの以下の記事より転載しております。2024年1月以前のバックナンバーもこちらからどうぞ。