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「人生の主導権」を握るとは

”人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当たるのが各人の性堕だという” 『山月記』ー中島敦

最初に

国際経済学を学んでいる大学生の しょうへい です。
就活中に出会ったInteeという就活ゼミを通して、『人生の主導権』の在り方について考えてみた。


1: 就活ゼミ inteeとは?

inteeは人生の主導権を勝ち取りたいと考えている学生に対して、スキルアップ(個の力)を実現することで、キャリアの選択肢を増やし選ばれる人材から選ぶ人材に生まれ変わるサービス

つまり、『個の力を伸ばし、貴重な人材を目指す』ゼミだ。
社会背景として、以下のことを挙げている。
①雇用のグローバル化
②AIやロボット参入による既存労働の代替
③終身雇用の限界

会社の看板だけを背負って生きるのではなく、自分自身にブランド力を付けることで、自立した社会人を目標とする。

しかし、ここでinteeの方針について疑問を感じた。
「人生の主導権」とは何か
個の力とは何か

2: 個人スキルは大きく二つある

「人生の主導権」に答える前に、「個の力」について因数分解したい。
一般的に考えられるのが、英語力やプログラミング技術など個人の技量に大きく依存するユニークなスキルだと思う。
ただ現段階においても、ポテンシャル採用が隆盛な日本において私は以下の二つに分割できると考える。

個の力 = パーソナルスキル + テクニカルスキル

もちろんほとんどの就活生は耳にタコができるぐらい聞かされているであろう恒等式ではあるが、ポテンシャル採用において重要視されがちであるパーソナルスキルの捉え方について考えたことはあるだろうか?

パーソナルスキルとは一体、何者であろうか?

3: パーソナルスキルの捉え方

『あなたの強みは何ですか?』
『あなたはどんな人ですか?』

そもそもこの質問に言語化された答えが返ってきてしまったことで、あなたの強みや本性が一義的に定義されてしまっている。
つまり、あなたが「情熱」を強みにするのであれば、より強い「情熱」を持つ人が代わりに採用されるだろう。
ただ本質的にはあなたの「情熱」と他人の「情熱」には、質的な違いがあるはずだ。
定量的に測定可能なテクニカルスキルと異なり、個々人の持つパーソナルスキルスキルは定性的なものであるため、各々微妙なニュアンスの違いを孕んでいる。

性格診断の結果を見ても、本当に該当していると思うのか、それとも意識的・無意識的に『当てはまりにいっている』のかわからない。

この答えは私が就活を終えてから、改めて回答したいと思う。

さて、パーソナルスキルが重要視されるのは日本企業のポテンシャル採用が未だに続いているからだと説明した。
欧米型のジョブ型採用が近年話題となってはいるが、今年度、来年度中にメジャーになることはないだろう。

そもそも欧米諸国の大学システムと比較して、長期インターンシップでの休学や社会人入試が一般化されていない日本型キャンパスライフでは困難だと考える。
実際、私のルームメイトだった外国人は20代後半で従軍経験があり、降下訓練やビジネス経験について豊富な体験を語ってくれた。
多様なバックグラウンドを持つ人物はジョブ型採用において即戦力としてみなされ、活躍できる現場が広がる可能性がある一方、日本人学生は4年でストレートで卒業することが一番良いと考えている。
どちらが良い悪いは一概には述べることはできないが、今後ジョブ型採用が一般化した時に、多くの大学生は勉学+αを求められることになるだろう。

再び話が脱線してしまったが、次にinteeで得たパーソナルスキルについて説明したいと思う。

4: パーソナルスキルは学ぶものではない。身につけるもの。

inteeで学んだ一番重要なことだと思う。

細かい取り組み内容は他の #intee で紹介している方達に譲るとして、ここでは簡単な概要だけにとどめ、取り組み方に焦点を当てたい。
一連の流れとしては、
① 課題図書を読み込む
② 落とし込んだ内容に照らし合わせて、事前配布された問いに答える
→自分なりの答えをレポートにまとめる
③ 3,4人程度のグループメンバーに共有する
以上の手順を3回繰り返して行った

取り組んだ実際の課題図書の一覧。
『採用基準』: 伊賀泰代
『成長マインドセット』: 吉田行弘
『不格好経営』: 南場智子

皆さん、読書って聞くと読んで終わりってイメージするだろう。
実際、自分もインプットのためだけに読書って位置づけられてると思っていた。
娯楽にしかり、ビジネス書しかり、自分が十分に理解する必要があると思い込んでいた。

ただ、今回「アウトプットのための読書」に取り組むことで読書の本質にも気づくことができ、これはほかのことにも当てはまると感じた。
というのも、本質的に読書というものは苦痛であるべきである。
なぜなら、「他人の考えを自分に取り込む」必要があるからだ。

読者とは異なる環境で育った筆者の「バイアス」がかかった考え方に100%共感することは難しい。
どんなに本を賛美しようが、究極的には筆者の考えに質的に迫ることはできない。
(↑の定性的なもの・言語化に伴うニュアンスの差異を参照)

ただ、一番の問題点は、
その自分とは異質な考えを受け入れる過程での「心地良い苦痛」に満足していないか?

感覚としては、受験勉強の時に金銭を払って、大量の参考書をまとめ買いしただけで勉強した気になっている事象に似ている。
(一部話題の「積読」による効果もあるらしいが…)

『読書について』でショーペンハウアーが読書の心得について述べている。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。

読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく

人がこれまで歩んできた道のりをただなぞるだけではいけない、と多読に対して警鐘を鳴らすショーペンハウアーではあるが、ではどのように読書に対して向き合えばよいのだろうか?

したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでに至らない。だが熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

(強調は筆者による)
ここには私の経験上でも多いに同意できる点がある。
これまで多くの本に触れ合い、他人より読書に費やした時間は圧倒的に多いと自負しているが、その割にはアウトプットに貢献していないように感じる。
端的に言えば「読書のコスパの低さ」を感じていた。

持論ではあるが、読書はコスパが一番良い勉強法だと思っている。
人の半生を2時間程度で追体験でき、その考えを吸収できる良い道具だと今でも考えている。

ただ、本当に読書が実生活で役立っているか、と言われると疑問を感じざるを得ない。
生活の中で読書が役立つ場面が少ないというわけでなく、「読書を通じて学んだ知恵」を活かそうとしていない、もしくは忘れてしまっている点が問題である。

それゆえに、最近「読書帳」をつけ始めた。

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実際の読書帳の一部 (思考の整理学)

ショーペンハウアーが言うように、読んだ後にいかに熟慮を重ねるか、そして実行に移せるかがポイントとなる。
忘れないように日々見返せるように、スキマ時間で本の内容を30秒で見返し、思い出すことで実行を習慣につなげていきたい。
そうやって実生活で実行できる機会があって初めて、「身についた」と言えよう。
そして自然と身についたスキルがパーソナルスキルの源泉になるはずだ。

その点では、inteeでのアウトプットの場は非常に貴重な体験であった。
本当に感謝している。

5: なぜパーソナルスキルを身につけたいのか? 自己分析で見つかる怪物

この問いに答えるのは簡単だ。
A 日本企業がポテンシャル採用を施行しているから。

では、次の問い。
Q あなたのポテンシャル、潜在能力とは?

よくこの時期になると自分の強みがわからない、とか合っている企業がわからないなどの文句を耳にする機会が多い。

一昔前には「自分らしさ」とか「自分探しの旅」がブームになっていた。
よくよく考えてみるとおかしくはないだろうか?

数種類の香水を横展開して、「自分らしい香りをあなただけに!」みたいな謳い文句を並べる。
自分らしさ」がパッケージ化されて商品棚に陳列されている。

または、一人でぶらぶら旅に出て、「本当の自分」を探しに行く。
もし万が一、本当の自分を見つけることができたら、それはもうドッペルゲンガーだ。

本当になりたい自分はどこにあるのだろう?
自分らしさとは、自分って何なのだろう?

私なりに就活での自己理解の深め方に対して、一つ考えてみた。

自分のポテンシャル、潜在能力は幻想だと。
ありもしない超能力や才能、能力に期待するのはやめよう。

自己分析はとても残酷だ。
自分を徹底的に客観視することで、判定が下される。

就活生が自己分析の上で言う「わからない」は以下の二つに大別されると思う。
①なにもはっきりしたものがわからない
②これで合っているのかわからない

そしてこの二つのわからないに共通するのは、
「これは『自分の思っている自分像』と違う」

心理学でいうジョハリの窓の考えに一部共通するところがある。
自分の自己理解、自己開示と他人からの自分に対する理解を比較したマトリックスである。

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(Wikipediaより)

恐らく一般的に自分が思う『自分像』は第一象限に属するところだと思う。
またよく面接で聞かれる「友人からはどのような人だと言われますか?」との問題は第二象限に属し、結論は第一象限に滑らかにスライドさせるのが上手な答え方だろう。

問題は、1から4(「公開された自己」から「誰からもまだ知られていない自己」まで)がすべて『自分』であるということだ。
(そもそも「誰からもまだ知られていない自己」とは?とも思うが…)

そして自己分析というのは一般に過去の深堀り、点と点をつないで線を繋ぐといわれている。

そうして浮き上がってきた自分像が「自分の思う自分像」とは違うことに、就活生は疑念を持つのも当然である。

そもそも象限が違うのだから。

それでも自分というのは解放されている部分もありながら、隠されている部分もあり、見つけることができない部分もあることを認めなければならない。

しかし私は自己分析、他己分析を進める中で一つ強烈な違和感を持った。

これって本当に私?

6: 怪物との向き合い方

自分の知らない自分が見つかるうちになぜだか恐怖を感じてしまった。
まったく一貫性のない自己。

めんどくさがり屋だけど完璧主義。
安定志向だが、挑戦家。
猿だけど、ペンギン。(←動物に例えてもらったときの回答)

自らが変幻自在だが、かつおぼろげな怪物みたいに思えた。
繰り返しにはなるが、ここでの問題は

自分が思う『自分像』と客観的分析による『自分像』のズレ

どっちが本当の自分だろうか?

私は「怪物を飼いならす自分」が保つべき自分像だと考える。
そこで話は「人生の主導権」に戻ってくる。

7: 人生の主導権としてのセルフリーダーシップ

inteeではセルフリーダーシップゼミに加入し、これまで課題図書と向き合いながら、パーソナルスキルの育成を図ってきた。

セルフリーダーシップは「自己統率力」や「自分で自分をまとめる能力」として説明されている。

ただ私はセルフリーダーシップに対して少し疑問に思う点がある。

私が私を率いるとは?
どっちの私が本当の私?

私に対してリーダーシップを発揮するのが私なのか
引っ張られることで実行するのが私なのか

自分にとってセルフリーダーシップの概念には二つ(ないしは複数)の自己の内在を前提としたものになっていると感じられる。

それは「理性」と「感情」なのか。
それとも「メタ認知」的概念なのか。

恐らく後半の方がセルフリーダーシップのコンセプト自体には共通するところが多いだろうが、私にとって「分裂した自己」というのは何とも厄介なものである。

ただ中島敦は、『山月記』において一つの提案を行っている。
『山月記』といえば、「その声は、我が友、李徴子ではないか?」の一説が有名な動物変身譚ではあるが、ここでは虎に変身してしまった李徴に学んでみたいと思う。

我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の所為である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせずに、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

自分の才能不足を恐れるために、あえて能力を磨こうともしないで、
同時に自分の才能を信じてもいたので、世俗にまみれて生きていくことを許せなかった。

益々、己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。

ここでいう「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が「自分が思う・あってほしい自分理想像」ではないだろうか?

科挙に合格して、高官・役人として登用されたがプライドが高く、協調性がない李徴が、自らの才能を頼みに退職し、詩作で生きていくことを決意した。
だが現実は厳しく、世俗とは離れて生きていくことはできないと悟った李徴は地方の役人として貧乏な生活に耐えてきた。
その暮らしがどれほど李徴の自尊心を傷つけたことだろうか。

理想と現実のギャップに苦しむ李徴は遂に猛虎に変身してしまう。
内なる猛獣である臆病な自尊心と尊大な羞恥心に身を喰われてしまったのである。

就活生も同じである。

自分が思い描く理想像と現実の自分像とのギャップは凄まじいものだ。

”人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当たるのが各人の性堕だという” 

どれだけ自分の性堕に対して主導権を握れるか。
性堕に主導権を握られないようにするにはどうすればいいのか。

各人が猛獣使いとしての自覚を持ち、自己の内面に住む猛獣と対話し、飼いならす必要がある。
決して飼い太らせることのないように。

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