何処かで誰かが、死んでいる
墓をつくりたいと思っている。
何かの例えではなく、人が死んで、骨や体が納められる墓を。
突拍子がなく聞こえるかもしれないが、そう思うようになったのはきっかけがある。
僕は自分の店がある街の自治会で、環境部という部署の長を務めているから、孤独死の話が年に数回ほど耳に入ってくる。
先日も店に来てくれていたお客さんが亡くなった。
窓が開かない家の様子を不思議に思ったご近所さんが警察を呼んで、それから事態が発覚したそうだ。
高齢化が進む街だから起こりうるとはいえ、顔や名前を知っている方が亡くなったという知らせには言葉が詰まる。
孤独死
なんと痛ましい表現の言葉なのだろうと思う。
それとも残されたものが勝手に厳しい想像をしているだけなのだろうか。
ニュースや新聞で見聞きするものの、こんなに近くでその人の孤独や死をイメージすることになるとは思わなかった。
その後にその方がどのように弔われたのかはわからないが、翌月の自治会新聞に「お悔やみ申し上げます」と添えられてその方の名前が載っていた。
ポップなゴシック体で、あっけらかんと。
裏面の、片隅に。
この記事でこの生は終わりを迎えるのだろうか。と、ふと思った。
この街はニュータウンである。
桑畑だったところに、新たな生活を求めて各地から多くの人が家を買った。
商店街や消防、警察から役所の分館、郵便局まで。
生活に必要なものは、ディベロッパーによって全て新調された。
しかしここに墓はない。
希望に満ちた新しい生活に、死のイメージは不要である。
生活しないもの(死を迎えたもの)の場所は、この街には存在しない。
この街で亡くなった人は、どこへ還っていくのだろう。
故郷だろうか、それともどこか別の場所?
死後の世界を信じているとか、霊的なものを感じるとかいう話ではない。
僕は時間や歴史の話をしているつもりだ。
過去にこの場所で生きてきた人たちの痕跡が蓄積され、記憶されたり思い出されたりすることが歴史になっていくのだと思う。
そもそも、みなさんの生活する家や職場など、生活する場の近くに墓はあるだろうか。
僕は埼玉県の川越市という街の中心市街地で育ったのだが、城下町だったこともあって寺社仏閣がとても多い。
ブロック塀の上から卒塔婆が覗いていたり、門から続く参道の向こうに墓が見えたりと、生活している風景の中に墓の存在を感じることがある。
僕にとっては当たり前の風景だったために特に意識したことがなかったのだが、この街に来てから、過去に眼にした墓、というか死のイメージが生きていくことにとって重要だったのではないかと考えるようになった。
先月は、妻の仕事の付き添いで多摩ニュータウンに行ってきたのだが、ここにもやはり墓がない。
有名な多磨霊園は遠くの山の向こう側。
こちら側には整然と並ぶ団地や、こざっぱりとした緑地。
人は生きているが、死者はどこにもいない。
そのような歴史や時間が無い場所は、なんとなく落ち着かない。
生きているという感覚が薄れていくような気がしてくる。
自分が死んだとしても、誰かが亡くなったとしても、僕や人の生きていた痕跡や記憶は残らないからだ。
そのことが、かえって強烈に死を想起させる。
生としての「死」と、死としての「死」。
僕は前者の象徴として、墓を身近なところにつくりたいと思っている。
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