8/31の日記
おととい読んだ、田中美津の言葉が気にかかっている。
「ただ生きているだけで良い」と田中美津は言うが、僕は、こういうことを言われると、ひねくれ者なので、何か人の役に立つ人生を送らなくては、と思ってしまう。
入院していたときは、元気になったら、あるいは、生まれ変わったら、看護師になろうと思った。辛い仕事なのはよくわかったが、患者のために忙しく立ち働く看護婦さんたちの人生が、とても充実して見えたのだ。
何しろ、こちらはひたすら時間と金を浪費する病人なので、そのコントラストを、いつも強烈に感じていた。
家にいても、事情はそんなに変わらず、両親は日中、共働き。仕事で疲れて帰ってきた母に、食事や風呂、洗濯をしてもらう。
部屋がないので、僕が痛みにうなりながら寝ていると、家族が気を使って、テレビを見たりおしゃべりをしたりできない。仕事以外に、ほとんど外出もしていない。
僕としても、いろいろと不便や苛立ちを感じることはあるが、両親の立場になってみれば、ずいぶん苦労をかけているなと思う。
入院して、何度も手術していた頃よりはましだが、今でも薬代や訪問看護の費用はバカにならないだろう。それでも食事は、好きなものを食べさせてもらっているのだから、ありがたい。
まあ、そんなことを考え始めると、「ただ生きていれば良い」とは簡単に思えないのである。
ベッドから動けないにしても、何とか、人の役に立つことをしなくてはいけないような気がする。
もちろん、これは僕個人がそう思ってしまうと言うことであって、原則としては、「役に立たない」人間にも無条件に生きる権利を保障されるべきだと考えている。
歴史は引き返せないのだから、色々問題はあるにしても、とりあえず「人権思想」だけは手放してはいけないと思う。それが近代社会において、豊かな未来の可能性を維持し続けるための最低条件だろう。
それにしても、である。
何か、人の役に立てるようなことをできないものだろうか。
本を読み、ときどき映画を見て、文章を書くくらいのことしかできない。ただ、才能も根気もないので、人に裨益するものは書けないだろう。大岡昇平研究をやりたかったが、できるか、どうか。
この日記だって、書くので疲れてしまい、ほとんど読み返さずにアップしているのである。少数の友人が読んでくれたら、くらいのつもりで書いているだけなのである。
空いてる店の店番くらいならできるかもしれないが……。
母が、駅でやっていた物産展で「トラピストクッキー」を買ってきてくれる。
とてもおいしい。
箱に「祈れ。働け。」と書いてある。母が、これは誰に向かって言ってるんだろうと言うので、これは修道士たち自身のモットーで、他人に言ってるわけじゃないんじゃないかと答える。
それから、仏教とキリスト教の違いについて話す。仏教では、あらゆる煩悩への執着を捨てることを目指す。原始仏典では、どうも輪廻転生や、死後の魂のことはあまり語られてないようだ。
それなら、葬式はなぜやるのか?と母。
単にお寺の商売なのでは?と言ったら、母が「あ、わかった。遺族の執着をなくすために、お経を読んでるんだ」と言う。
なるほど。
たしかに、遺族のため、という理屈をつければ、葬式仏教も、ブッダの根本教義から、大して遠ざからずに済みそうだ。
いつも親子でこんな高尚な話題をしているのか、と思われそうだが、そうでもない。
今日はたまたまである。
妙に印象的だったので、ここに書き留めておく。
井伏鱒二『珍品堂主人』(中公文庫)を読む。
日本の小説家で、最もスケールのでかい巨匠が井伏鱒二である。ひょっとすると、漱石や鴎外、あるいは川端や谷崎より、ずっと偉いのではあるまいか?
ノーベル賞作家の大江健三郎も、井伏鱒二をとても尊敬していた。
その井伏鱒二が、骨董屋の主人を描いたユーモア小説。骨董の奥深さが描かれてるのかと思いきや、わりとゲスな話で、面白かった。