見出し画像

ピナ・バウシュ「春の祭典」を観て

現代舞踊ではピナと田中泯しか思い浮かばないくらいの浅い知識だけど、18年ぶりの日本公演と聞いてミーハー心で観劇した。

3部構成の最後に行われる「春の祭典」は、アフリカ13カ国、35名のダンサーによる群舞。ピナの率いたバレエ団による公演の他には、パリ・オペラ座バレエ団とイングリッシュ・ナショナル・バレエ団が今までに「春の祭典」を上演しており、今回が初めて、バレエのルーツを持たないダンサー達による上演となる。

初めて見るピナの振付・構成はとても独特で新鮮だった。舞踊に映像や詩を組み合わせるなど、ミクストメディアによる表現を用いており、後から広告を見ると「ダンスと演劇の境界を取り払うダンス・シアター」と書かれている。

「PHILIPS 836 887 DSY」

ピナの最初期の作品で、ピナ自身が踊ったという演目。人の身体が滑らかな軌道を描いて回転する動きと、機械的な効果音がリズムを変えたり重なったりする環境音楽のようなものとの組み合わせ。今使われているヒトの身体の動きが、ただ慣習的にそうであるだけ、と感じるような、ヒトの身体ではあるが別の生き物のような有機的な動きをする。

「オマージュ・トゥ・ジ・アンセスターズ」


詩や映像、床に領域を描く白い粉?蝋燭など、かなり賑やかな状況で、ここで一度面食らう。舞台背景のようなものは一切ない中で、床に踊りながら粉をこぼすことで領域を作り出す方法は、背景と身体の持つ温度感に差が生まれないという点に、普段舞踊を見ない自分にとっての新しさがあった。

演劇のように設定や物語があるものでは気にならないのかも知れないが、「いまのこの場に身一つから生まれつつある表現」と、「過去に用意された背景」との間に、柔らかさや生っぽさ、温度感の差異が生まれてしまうのかも知れない。

「春の祭典」

ストラヴィンスキーの同名の音楽に合わせ、豊穣を願うための生贄に選ばれた女性が踊り続ける様を描く。前半の2部との幕間に舞台には赤土のようなものが敷かれており、その上でアフリカ出身の35名のダンサーが踊る。

ダンスが揃っていること、フォーメーションに乱れがないことなどが商業的なダンスでは賛美されやすいが、一方でそれは軍の行進のように人をマスで捉える危うさを孕む。彼らの群舞は、全体を見たときに個人が主張するような前に出る表現は少ないが、個々の身体性に由来する揺らぎはある。仏像を彫り出すときに、木の中に仏が見えたところでやめる、円空のような荒さだと感じた。表現が身体から離れて純化してしまう一歩手前、ぎりぎりのところにあるような緊張感があった。儀式や祈り、と言う方が正確なのかもしれない。当時ピナが率いたバレエにルーツを持つ人々の公演ではどうだったのだろうか。

数年経って個々の動きを思い出すことはできなくても、この赤い土と半裸のダンサーたちと、そこで行われた儀式のことは覚えているのだろう。

いいなと思ったら応援しよう!