【感想】『原子力の哲学』『不安の時代の抵抗論:災厄後の社会を生きる想像力』刊行対談@GACCOH
1. Vimeo 配信について
戸谷洋志さんの新著の『原子力の哲学』と田村あずみさんの『不安の時代の抵抗論』の刊行対談にvimeo参加した。
GACCOHのvimeoは初参加したんだけど、音声も映像もクリアで切断とかもなくて、非常に良かった。
結構配信イベントとかは、映像配信でドタバタするのがストレスになるので、それについてはまったく感じなかった。運営の太田さんがすごく頑張っていたのが伝わってきた。
映像とかの切り替えとかも、顔のアップにしたり、ところどころ工夫されてて、「おおっ!」と驚いたり。いや、ほんとにそういうのは大事だなって改めて思いました。
2. 思ったこと・考えたこと
では、対談の内容はというと、まずは2人によるプレゼンテーションによる著書の解説から始まった。
お二人のパワーポイントも本に書かれている内容はもちろん、書かれなかったこと、背景や書ききれなかったことまで説明があったので、どういう目的で本が書かれているのかが非常によくわかった。
私個人としては、立場的には、社会学を研究していたこともあり、田村さん的なことも理解できるし、思想的には戸谷さんの哲学の方に近いのだと思うので、非常に共感して聞いていた。
対話を聞いている中で、いくつか考えてみたことを書いてみる。
(1) もうちょっと落ち着けって by ハイデガー
この対談の中で個人的に非常に興味深いと思ったのは、ハイデガーについての原子力の哲学だ。
ハイデガーは、エネルギーについて考えた哲学者だと考えられる。彼はこのようにいうように。
すでに人間のほうが自然エネルギーを開発するように挑発されている場合にのみ、このような用立てする開蔵は起こりうる。人間がそのために挑発され、用立てられる場合には、人間も、むしろ自然よりもいっそう根源的に、用象に属するのではないか?人的資源〔Menschenmaterial〕、診療所の臨床例〔Krankenmaterial〕といった広く流布している言い方はこれの証拠である。マルティン・ハイデッガー『技術への問い』関口浩訳、凡社、二〇〇九年
彼は、見えないもの=エネルギーについて考えた思想家だったのではないか。それは彼の生きた時代がまさしく原子力発電などでエネルギーについて非常に活発に議論された時代でもある。
ここでハイデガーは、人的資源という言葉を使っていることは非常に面白い。いわゆる現代のやりがい搾取の問題は、労働者のエネルギーを奪うことだ。人間ですら、エネルギーに変換されてしまう。そのことを彼は現存在の頽落と言ったのではないか。
さらに彼は原子力のことを、「不気味」というフレーズを使って説明する。これには非常に意味があると、戸谷さんも語っていた。
ドイツ語の「不気味」というのは、unheimlich という。unは否定の意味、 heimは故郷や家、 lichはのものという意味である。またハイデガーは、その反対の意味として土着性Bodenständigkeitという言葉を使っている。
ハイデガーが「不気味」という言葉で原子力について説明するとき、そこにあるのは、そういったことを思考するときの不可能性について論じていたと考えられる。だが、一方でハイデガーは来るべき土着性という言葉を使っているように、原子力を考えられるようになる未来もあるのだということも語っている。
要するにハイデガーは、新しい技術だとか騒いだりする前に落ち着いて考えろよっていう極めて穏当なことを言っているのだというのが私の解釈だ。多分、Clubhouseとかにもハイデガーは同じようなことを言っていたのだろう。
(2)文学的想像力
さらに言えば、ハイデガーは計算する思惟と省察する思惟という2つの思考を論じていた。要するに、これは数学や科学と文学や哲学のことだとも言い換えられることができるだろう。
ハイデガーは原子力時代においては、この計算する思惟だけが唯一の思惟として正当化されることを危惧していた。
原子力時代において走り出している技術革命が、いつの日にか計算する思惟だけが唯一の思惟として正当化され慣習化してしまうような仕方で、人間を束縛し、妖惑し、眩惑し、盲目にするかも知れない
これは非常に重要だ。ビックデータや統計学といったもので、今まで見えなかったものが、見えるものへと変換される現代において、その計算する思惟の正当性に対して、省察する思惟はどんどんと居場所をなくしていく。
面白いことに、『原子力の哲学』の中では、文学的想像力が大事だということを、多くの哲学者が論じている。ハンス・ヨナスは、ハックスレーの『素晴らしい新世界』を上げていたり、デュピュイは毎週1冊の本を読み、1本の映画を見るという処方箋を与えている。
(3)ヨナスのパラドックス映像化としてのTENET
あと面白いのは、デュピュイの言うハンス・ヨナスのパラドックスがまんまTENETだということだ。映画を見た人はこの下記の文章を読めば少なからずそう思うだろう。デュピュイは、不吉な予言についてハンス・ヨナスのパラドックスを以下のように論じている。
これは、単にハンス・ヨナスという二〇世紀ドイツの哲学者ばかりでなく、イエス・キリストの八世紀前の先行者である聖書の預言者ヨナをも参照したものである。彼ら二人は同じひとつの、不幸の予言者なら誰もが直面するジレンマに直面していた。この予言者は、将来の破局が抗いがたい未来のうちにすでに書き込まれていると告げねばならないのだが、それはこうした破局が生じないようにするためなのだ!(中略)直観が私たちに語るところによれば、このパラドクスは、過去における予期と未来における出来事のあいだでつながれるべきループがつながれていないことに由来する。「もし私たちがその実現を妨げたら、それは未来ではない!」。
となると、クリストファー・ノーランは、実はデュピュイ的な思想の持ち主なのか。確かに、インターステラーなども到来する破局的な未来を描いていたわけだが。ぜひ戸谷さんにTENETを見てほしい。
(4) でもデモって観光じゃないの?
田村さんのデモの話は、私も当時社会学で、震災研究とかをしていたので、色々と考えていたのだけど、私の結論としては、デモも一つの観光であるということだ。たぶんこれは東さんの受け売りなんだろうけど。
田村さんの「情動」や「アフェクティブな知」という話は、実は観光客の哲学の文脈でいえば、観光にいった先で、出会った体験から学んで帰ってくるということだ。そもそもデモになんとなく参加してみるという人も多いだろう。その行為は非常に観光的だ。
反原発デモ自体がイベント化、観光化していたとも言える。
私の東さんのデモに対する考えは、デモ自体は批判はしていないと思っている。むしろデモが自己目的化すること、デモをしていないとけしからんとなっているのが良くないって言っているのだと思う。デモは社会を変えるためにあるのだから、デモで逆に敵を作ってしまっては全く意味がない。
また、動員の時代にあっては、参加しない自由というのも一つ重要だ。これはかんたんに言えば、引きこもりの権利だろう。コロナでいえば、愚行権とも言える。ただ、この両者にも明確に他人に危害を加えるとかそういったレベルでは違いは存在するのだが。
ともあれ、私個人の見解としては、繰り返すがデモも観光の一つだ。
ガチな政治運動だと思われているデモですら軽薄さを併せ持っている。一方で、遊びだと考えらている観光にも、学びがあり、自己を変容させるきっかけを持つ。そういうことだ。