【やっとレッチリに会ってきた!】 #2 レッチリと新聞奨学生
【レッチリと新聞奨学生】
レッチリのヤバさが沸々と分かって来たのは、ドラムを始めてからな気がする。
端折りますが、18歳、何をとち狂ったのか、ドラム経験も対してないのに、ブランキージェットシティの中村達也さんが卒業生である、今は亡き、池尻にあった音楽学校メーザーハウスに通う為に、新聞奨学生をやっていた。
そして、ただの技術不足でついていけなかっただけなのに、「音楽は習うもんじゃねえ!!」と、学校は、3ヶ月で辞めました笑
それから2年間、学費を払う為に、若かりし頃を、奴隷制度のような新聞配達に拘束されていた。
それはさておき、新聞屋の寮に居た数人が、「レッチリ分かっているやつはセンスが良い」と言う空気感だった。その時、高校生の頃に感じていた孤独がようやく解消された。
やっとレッチリの話が出来る!
日夜、寮のメンバーと好きな音楽を掛け合って、ファンク好きな先輩がフリーが影響を受けている音楽を教えてくれたり、ジョン・フルシアンテのギターのヤバさ、瞑想してジミヘンの曲が弾けるようになった話など、ギターマガジンを見ながら教えてくれた。
ただ、逆に、人の好きな音楽をめちゃくちゃディスってくる時代でもあった笑
音楽の専門学校に通うくらいの寮生なので、テクニック重視で、音楽の歴史に関しての造詣が深く、「カートコバーンは神です!」と言ったら、「お前、ショットガンで自殺した奴が神なのかよ!」と大笑いされ、EXILE好きなんて仮にでも言ったら迫害される感じだった。
比較的、パワーコードの簡単な楽曲構成がバカにされがちだったのです。
そして、僕らの間では「レッチリ分かっているやつはセンスが良い」から「ファンク・R&B・ブルースを分かっているやつはセンスが良い」に切り替わり、読書、映画も加わり、サブカルインテリ集団と化していった。
そこの流れで、僕は完璧に置いてきぼりにされた。
「ほえー、はわー」と相槌を打つだけの人間になっていった。
何故なら名称を覚える事に、著しく記憶力が悪いからだ。
そして、僕は新聞配達をしながら、発売されたばかりの「ステイディアム・アーケイディアム」を聴いて、デスノートの楽曲として日本で盛り上がっていく中、浮気されたような嫉妬に陥り、音楽に対して厨二病が増しながらも、やっぱり「レッチリは良い…。」と心では思っていた。
続く…。東京ドームまでまだまだ笑