お前らの映画『JOKER』の感想は全て間違っている
問題作として話題になっている映画『JOKER 』。
確かに問題があると思うが、それは本作が問題作という意味においてではない。
むしろこの映画によって社会の醜さが見事に暴かれてしまった事が問題なのであり、しかも一瞥する限り、誰もその危険性に正面から向き合ってないことが最大の問題のように思う。
「JOKERはどんな人の心にも存在する否定できない"悪"」とか「社会的マイノリティーへの共感」といった評価を得ていることがその何よりの証左である。
だからこそあえて断言するが、この映画の解釈のされ方は間違っている。
JOKERに共感できる人間などいない。
共感したつもりになっている人間は、作中でピエロの仮面を被って大騒ぎしている間抜けな大衆なのだ。
一緒に鑑賞した仏教徒の友人が「こんな映画が流行るなんてまさに末法だ」と言っていたが、本当にその通りだと思う。
一番恐ろしいのはJOKERの狂気でもJOKERを生んだ悲惨な不条理の数々でもない。
この映画が同情的な評価を得てしまうこのクソッタレな世界そのものだ。
想像を絶する、わかりもしない悲劇に共感するのは欺瞞である。
そしてその欺瞞が最悪の喜劇を生み出すのだ。
JOKERは何故JOKERなのか?
母の介護をしながら派遣のピエロ業で喰い繫ぐ主人公アーサーがJOKERへとなるに至る過程を描いた本作だが、彼は何故「JOKER」なのだろうか?その名が与えられたのだろうか。
JOKERとは言わずもがなトランプのJOKERが由来であることは疑う余地がないが、ところでトランプとは階級社会を表す記号の総合である。
トランプの絵柄はスートと呼ばれ、ハートやスペードは四季や職業を含意する他、数字は当然ランク(階級)を表している。
つまりトランプとは、それ自体が一つの社会を表現していると言っていい。
その中でJOKERとはいわゆる”ババ”であり、多くのゲームでKINGを殺すことができる唯一のカードだが、それはJOKERが”外れ者”であり階級社会に属していないからこそできる所業である。
つまりJOKERには一般的な社会通念や秩序は存在しないのだ。
話を映画に戻すが、アーサーは社会の底辺として苦しい生活を送る中で誰にも理解されないと感じつつもなんとか健気に生きようとする。
しかし、信じていた母が実の母ではない事が発覚するばかりか、母と共に信じていた親子のライフストーリーも母の人格性障害による妄想であり、さらに自分もその障害を抱えていることが判明する。
その瞬間、アーサーは社会や現実との関係を全て絶たれてしまう。
彼が何とか前向きにしがみついてきた最低な現実は現実ですらなかったのだ。
それは即ちアーサーが社会の底辺からすらも切り離され、真にJOKERになった瞬間である。
だからこそアーサーは社会との繋がりを完全に失ってしまった存在、JOKERなのである。
JOKERの気持ちなどわかるわけがない
さて、JOKERの姿や行いの中に自分や一般的な人間に通じる普遍性を感じ、彼に共感してしまう...そんな恐ろしさを語っているレビューが目立つが、それは全て最低な勘違いである。
我々の多くは階級社会に属している人間だ。ランクがどれだけ低くかろうと、親がいて、友がいて、他人と現実を共有できている...このどれかを満たす限りにおいて我々はスートという立派な社会の一部なのである。
そんな人間が社会から完全に断絶されるほどの苦しみを、そこから生まれる笑いを理解できるだろうか?
あの映画館の中に何人、JOKERに共感する資格を持つ人間がいただろうか?
本当に自分がJOKERに似てる部分があるとでも?
JOKERに普遍性などない。他人から理解のされようなんてない。だからこそ彼はJOKERなのだ。
我々スートがこの絶望に共感しようとすることは、それは全てJOKERに対する同情、もしくはそれを通して社会に被害者面をしたいだけに過ぎない。それは理解も共感でもない。欺瞞と驕りである。
そしてこの勘違いこそ本作『JOKER』が警鐘を鳴らしえた最大のメッセージなのだと思う。
JOKERの仮面がJOKERを生む
では、なぜその勘違いは最低なのだろうか。
この勘違いの恐ろしさ、そしてJOKERと我々の隔たりは作中で幾度となく描かれている。
物語中盤、アーサーは地下鉄内で襲われた証券マン3人を射殺してしまう。そしてこの射殺はJOKERそのものではなく、JOKERの仮面を生み出す契機となってしまう。
この事件は、アーサー自身は自衛のために錯乱状態で起こしてしまったものだが、世間ではピエロ(匿名のだれか)による上流階級への報復に違いないと都合よく解釈され支持を受けてしまうからだ。
その結果、ピエロの仮面をつけたデモが横行し、アーサーは自己肯定感という殺人の報酬を受けてしまい、そんな仮面大衆の中から
つまり、ここで行われたスート社会による恣意的な解釈こそJOKERを誕生させるトリガーとなってしまっているのである。
ここでは物事の真相を理解せずに、そこに社会的なスキーマを投影して共感的に解釈することの危険性が示唆されている。
これは我々スート社会の人間が理解できるはずもなく、その資格すらないのにも関わらずJOKERに共感しようとすることと同義である。我々は決して理解できないJOKERの感情に勝手な注釈を付けくわえ、やれ恐ろしいとかやれ深いだとか愚かなレビューを拡散させているではないか。
考えてみてほしい。作中ではJOKERの仮面の群衆の中にJOKERが紛れることが可能になったおかげでその混乱は拡大し、警察官による誤射で市民が死亡。デモは一線を越え暴動となってしまう。そしてJOKERは我々(仮面のJOKER)と隔たりを持っているにも関わらず、崇められ、羽化してしまう。
つまりこの作品はJOKERが普遍性を持つゆえに誰もがJOKERになりえることを示しているのではなく、JOKERを理解したつもりになった人間がJOKERを生む危険性を示唆しているのだ。
だからこそ、JOKERに対する恣意的な同調・共感は最低最悪の鑑賞態度なのである。
『JOKER』は喜劇か?悲劇か?
本作を完成度の高いコメディー、深いメッセージを含んだ喜劇として理解する向きも見受けられるが、大多数の人間にとって本作は悲劇であって、本作を喜劇と言うことができるのはJOKERのみである。
JOKERは自分が証券マン殺しの犯人であることを告白した番組の中で「主観がすべてだ。笑えるか、笑えないかは全て主観が決める」という旨の発言をしている。
もちろんこれは番組の司会者に「殺人の言い訳をしているに過ぎない」と言われるように、詭弁である。
しかし、JOKERにとっては詭弁ではない。
何故なら社会と切り離されたJOKERには秩序も倫理も存在しないからだ。
彼は社会から客体として捨て去られた存在、JOKERだからであり、当然そこには主観しか存在しないのである。
映画の最後、精神病棟でJOKERは自分で思いついたネタにほくそ笑み、その内容を尋ねてきた精神鑑定官に「理解できるはずない」と言って説明を拒否する。
そう、社会の秩序や倫理から解放されたJOKERのコメディは我々スートに理解できるはずがない。
だから本作を喜劇として論じようとすること自体が既に誤解の始まりであり、最低な勘違いの入り口なのである。
JOKERの身に起きたことはどこからどう見ても悲劇ではないか?これが喜劇になりえるだろうか?喜劇にする必要が我々にあるのか?JOKERが社会から完全に切り離され、それが故に自分のコメディを確立してしまったということは、笑えることか?自己実現のドラマ?ビルドゥングスルマン?そこにカタルシスを味わう?どの口が言ってるんだ。
これほど劇中で再三JOKERと我々の隔たりが示されているのに、共感がどうだと言っている読解力の人間が湧き出ている惨状を目の当たりにするとわが国の義務教育のレベルがいかに深刻かよくわかる。
JOKERに共感すべきかどうか、という問い自体が間違っている(我々スートには絶対できないから)はずなのに、そのベクトルで議論が巻き起こってしまうのがこの映画の最大の不気味さ、そして視聴者のキモさなのだ。
この映画の本当の恐ろしさ
ここまで語ったように、本作は冷静に考えればただの悲劇でしかない。
ところが、笑えない喜劇として何か人生の真実や普遍性を提示されたような気になっている人間がいるとしたら、それこそ笑えない喜劇である。
だから、僕の友人が語ったようにこんな映画が恐ろしさと共に共感を得て注目されるこの世こそが末法なのだ。
この映画にそんな感想を抱いてしまった人がいたら、頼むから考えを改めてほしい。
僕はそんなJOKERの仮面をつけた似非アーサーに囲まれているこの現実こそが最も恐ろしいからだ。
本物のJOKER的人間がこの映画を見てどう思うかはわからない。
しかし、
しかし。これほどまでに大衆の残酷さを、しかも大衆に突きつけることなく露呈させた『JOKER』には拍手を送りたい。
追記:2021年10月31日の京王線放火事件について
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