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エッセイとは漠然とした隕石のようなもの

末吉 宏臣さんのエッセイを読んで、わたしなりのエッセイの定義について考えてみました。

わたしは今、天狼院書店のライティングゼミを受講しています。
その目的としては読み手により伝わる文章を書きたいと思ったからです。でも、読み手がいるかどうかはエッセイの本質ではないと思っています。と言うのもエッセイ(随筆)の古典である徒然草の序段をわたしなりに現代風に解釈すると、「やることもなかったのでなんとなく、SNSに気の向くままに書いてみました」みたいなことだと思っています。だから、伝わりやすい文章か否かはエッセイの本質ではないと思っています。でも、書いていくなら伝わる文章の技術を身に付けたいと思ったので、ライティングゼミの受講を決めました。4ヶ月間かけてじっくり身に付けていきます。

ライティングゼミの課題ではしっかりと練った文章を提出していきたいと考えています。でも、書きたいことを欲に任せてどんどん書いていくのもわたしは好きです。レはストレングスファインダー によると一番の強みが「内省」であり、そのアドバイスが「読むことと書くことで物事を深められるタイプです」とあったからかもしれません。

読み手を意識して書くことは当たり前ですが、難しいことでもあります。
俗に言うペルソナの設定さえできていればいいのかもしれませんが、なかなかそう上手くはいきません。だから、わたしはライティングゼミで学ぶことにしたわけですが、一番の理想は心の赴くままに書いた文章が読んだ人の心に残り何かが変わることです。そのためのテクニックの基礎をゼミの4ヶ月間でしっかり体得していけばいいのだと考えると気が楽になってきます。

本当は常に学んでいる方法というものを意識して書くべきなのかもしれません。
でも、わたしの書く一番の目的は自分自身の内省を深めるためです。それが結果として誰かの役に立つことがあったら、いいなくらいの感覚です。

今、これからは二つの場所でエッセイを書いていこうかと思っています。
一つはこのnoteであり、もう一つは読書会のホームページです。
使い分けとしてはnoteには気の向くままにそれこそノートにぐちゃぐちゃに後先考えずに書いていく感じです。ブログには自分なりに読書会に関わりがある人というターゲットを意識した文章にまとめたものを書いて行こうと考えています。

伊坂幸太郎氏は「3652」の中で以下のように語っています。

漠然とした隕石のようなものが読者に落ちてほしい、といつだって願っている。

わたしも同じような感覚かもしれません。何か読んだだけで劇的な変化を起こせる自信はないけれど、ただ読んでおしまいというのではない状態がいいなと思います。なんとなくモヤモヤっと引っかかる、ふとした瞬間に思い出してしまうような何かを与えたいなと考えています。

わたしの中の今のエッセイの定義は、読者に落ちる可能性のある漠然とした隕石のようなものということになるでしょうか? 
そのために脳の洪水のように吐き出すnoteの文章と(気持ち的にはしっかりと)読者を意識してかくブログという二つの媒体をメインに使って行こうと思います。
ライティングゼミを受講することによって自然とその二つができるようになったらいいなと思っています。

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