言語は曖昧でいい。
本記事は"Linguistic Typology at the Crossroads" に掲載された私の論文 "Noun juxtaposition for predication, possession, and conjunction: Beyond ambiguity avoidance" の紹介記事です。さらに詳しく知りたい方は,以下のリンクより論文をダウンロードして,読むことができます。
背景
ある言語形式はどのように説明されるだろうか。例えば,「高校」という単語は,なぜこのような形式をしているだろうか。この疑問への恐らく最も単純な回答は「『高等学校』を省略したから」で,誰にとっても親しみのあるものであろう。
この例から分かるように,人類言語には,言語の形式を「なるべく単純に・簡単に」するという特徴がある。このような人類言語の特徴を「効率性」と名付けることとしよう。つまり,「高校」という形式は,効率性という観点から,「高等学校を単純に・簡単にした結果」と説明することができる。
しかしながら,言語形式は「効率性」だけでは説明ができない。仮に「効率性」だけを求めるのであれば,「高校」は「校」になっても良いはずだが,通常,「校」という形式を「高校」の代わりに用いることはない。これは「校」という形式では「学校」全般を意味してしまい,意味解釈が曖昧になるからと説明することができるかもしれない。つまり,このような単純過ぎる言語形式を用いることは,言語を使う者(話し手や書き手)にとっては効率的でも,使われた者(聞き手や読み手)にとっては意味解釈が曖昧になり,非効率的なのである。したがって,言語形式を説明する上では,「曖昧性の回避」という観点も忘れてはならない。
ここまで,言語形式を説明するものとして「効率性」と「曖昧性の回避」という2つの観点を紹介した。しかし,これらはときに相反するものとなる。言語形式は通常,単純であればあるほど,曖昧になる。例えば,
「お母さん〜牛乳!」—「お母さんは牛乳じゃありません!」
という会話はこれをよく表しているかもしれない。「お母さん〜牛乳!」という文は,話し手にとって,とても効率的な文であるが,この形式だけでは,「お母さん,牛乳を取って!」なのか「お母さん,牛乳が溢れてるよ!」なのか,はたまた「お母さんは牛乳です!」と伝えてるのか曖昧である。
つまり,「効率性」と「曖昧性の回避」はどちらも言語形式を説明する上での要因となりうるが,これらは時に相反する以上,人類言語はどちらを優先するのかという疑問が残されている。
名詞並列を対象とした調査
この疑問に答えるには,少なくとも2つのアプローチが考えられる。1つはとても単純だが,曖昧な形式を例に,その例の使用を人類言語は避けるのか調べること。もう1つは全く単純ではないが,曖昧性が一切ない例の使用を人類言語が好むかを調べることである。
本記事の基となっている Mizuno (2024) では,前者を採用し,具体的な言語形式として,「名詞並列」を取り上げている。「名詞並列」とは「花子 母」のように2つ以上の名詞がお互いの意味関係を示すことなく並ぶ形式である。「名詞並列」という形式は,言語によって様々な意味関係を示すことができる。世界の言語で代表的なのは,以下の3つの意味関係である。
主述関係: 花子は母である。
所有・被所有関係: 花子の母
接続関係: 花子と母
「名詞並列」という形式は,名詞間の意味関係を示す形式を使わず,ただ並列するだけでこれらの意味を表すことができることから,形式的な複雑性という観点から見れば,最も単純な(=効率的な)形式であると言えるだろう。しかし,同時に何も意味関係を示す形式を使わないということは,「名詞並列」という形式がどの意味関係を表しているか曖昧だということを意味する。事実,Frajzyngier et al. (2002) は「名詞並列」は意味解釈が曖昧であることから,これが同一言語内で主述関係と所有・被所有関係を共に表すことはないと主張している。
以上から,「名詞並列」という形式が同一言語内で複数の意味を表すことができるか,それともできないかを調査することは,人類言語が「効率性」を優先するかそれとも「曖昧性の回避」を優先するかという議論に貢献することが考えられる。それこそが Mizuno (2024)の研究動機である。
1つ注意されたいのは,Mizuno (2024) は言語類型論,一般言語学研究への貢献を目指した論文であるということである。したがって,Mizuno (2024) は特定の言語について述べたものではなく,人間が言語という観点で,「効率性」と「曖昧性の回避」をどう取り扱っているかという研究関心に取り組んでいる。言語類型論とはどんな研究分野かについては,以下の記事を参照されたい。
具体的な調査と結果
Mizuno (2024) では,「名詞並列」が上述の3つの意味関係のいずれかを表すことができる言語を対象に,以下の地図に挙げる72言語を研究の対象とした。先に述べたように,本研究は特定の言語でなく,人類言語の解明を目的として行なっているものであるため,これら72言語は系統的,地域的になるべくバランスの取れたものとなっている。
具体的な結果は以下の表の通りである。
72言語のうち,曖昧性を回避していると言える言語(=つまり「名詞並列」を1つの意味関係にしか用いない言語)は,17言語で約24%であった。またそのうちの13言語は主述関係のみを表すもので,所有・被所有関係や接続関係のみを表す言語はかなり稀である。むしろ「名詞並列」が複数の意味関係を表すことのほうが多く,3つ全ての意味関係を表す言語は,曖昧性を回避していると言える言語とほぼ同数の16言語見つけることができる(その他多くの発見があったが,それについては論文を参照されたい)。
まとめ
この結果は,人類言語は「曖昧性の回避」より「効率性」を優先するということを示唆する。
見た目の上では「名詞並列」という形式が意味解釈上,曖昧となり得ることは説明不要であると思われるが,もしかすると「名詞並列」が実際に曖昧かなんて分からないじゃないかという意見があるかもしれない。しかし,実際にこの形式が意味解釈上,曖昧であると報告されている言語もある。例えば,インドネシアで話される Sentani 語では「名詞並列」が複数の意味関係を表し,意味解釈の上で曖昧になり得るとされている。
この言語の例は,「名詞並列」という形式が,曖昧になり得るのにも関わらず,同一言語内で主述関係と所有・被所有関係に用いられるということを意味している。
つまり言語形式は曖昧で良いのだ。言語形式は決して孤立して存在することはない。必ず,文脈やイントネーションなど形式以外の付加情報を持つ。「お母さん〜牛乳!」に対して,本当に意味の曖昧性から「お母さんは牛乳じゃありません!」と返答する場面なんて想像し難いだろう。「はし」という形式は「橋」にも「箸」にも「端」にもなり得る。しかし「はし」が何を意味しているか曖昧で,コミニュケーションに問題が生じた経験は滅多にないだろう。イントネーションや文脈などが必ず意味解釈を助けてくれるからである。
言語学研究において,「曖昧性の回避」は広く主張されてきた。しかし「曖昧性の回避」の評価を見直すべき,そしてその代替として「効率性」を評価するべきときが来ているのかもしれない。