本当の「沖縄の魅力」に迫る歴史探検の旅④【アジアに輝く“海の王国”】
前回までは、琉球の始まりから、王国として栄華を極めるまでの大筋を、時間の流れに沿って旅してきました。
しかし、沖縄の歴史の魅力は、事実を単に並べただけでは見えてきません。
何が本当の魅力なのか?
それは、歴史の眼を遥か上空、大気圏・宇宙まで飛ばして、アジアや世界を包むような大きな視点で捉えたときに浮かび上がってきます。
沖縄・琉球の歴史を語る上で、最も重要なキーワードは、ズバリ「海」。
海に浮かぶ島々が、琉球王朝という独自の治世・文化を築いてきたその背景を真に理解するために、「海洋国家」としての琉球を世界史の視点で捉えることで、奥深い時代のロマンをさらに味わい深く感じることができるのです。
1.国際貿易拠点・那覇の登場
まずは沖縄が「海洋国家」への道を拓く物語のプロローグ。那覇が国際貿易拠点へと成長していくきっかけから見てみましょう。
14世紀中ごろ、中国大陸では「元」が衰退し、国を揺るがす内乱が勃発。さらには混乱に乗じて、沿岸部では「倭寇」という海賊集団が跋扈。日本と中国を結ぶ海域の治安が一気に不安定になります。
沖縄から遠い日本海での出来事ですが、なぜこれが沖縄にインパクトを与えたのでしょうか?
日本海での倭寇の暗躍によって生じたのは、博多を中心とした日中間の海路「太洋路」が使えなくなり、日中間の安全な別ルートが無くなるという事態でした。そこで活況を見せたのが、鹿児島から南西諸島・台湾を伝って大陸へ渡る「南島路」だったのです。中継地点となる沖縄には、これによって一気に人やモノの交流があふれ、一気に好景気が訪れます。沖縄が国際貿易のへの道を見出すきっかけは、実は日本海を倭寇が荒らしまくったことが遠因だったのです。
思いもよらぬ経緯から活況となった「南島路」で、なぜ那覇が拠点港となったのでしょうか?
実は、沖縄の島々には大きな船がたくさん停泊できる場所がほとんどなく、大きな沖縄本島でも、使える港が那覇港か運天港に限られました。島を囲むサンゴ礁が寄港を阻んでしまうのです。数少ない港の中でも特に良港だと評判だったのは、北部の運天港でした。ところが、首里にも近く、「浮島」というちょうどいい人々の居住区を持った那覇の港が、自然と交易の中心となっていったのです。「浮島」には多くの外国人が居住するようになり、いよいよ那覇が国際的な港湾都市へと急成長を遂げていくのでした。
現在も地名に残る「浮島」は、その名の通り、当時は海に囲まれた離れ島でした。県庁やパレットりうぼうのある泉崎付近には海岸線があり、海を挟んで、久米から若狭に至る広さで「浮島」が当時存在していましたが、土地開発が進み、その面影を想像するのも今では難しくなってしまいました。
「浮島」の中心部にある「久米」では、大陸から渡ってきた華人コミュニティが形成されていきました。加えて、日本や朝鮮など、様々な地域から流入した外来者がこの「浮島」に収まり、国際色豊から港湾都市を形成していったのです。
こうした那覇の急拡大は、沖縄の地元勢力にとっても大変都合のいいものでした。港湾都市は対外世界への窓口であり、多様な人やモノ、文化の交流によって、流入した外来者だけでなく、交易を支援する地元勢力も共に繁栄を享受することができました。こうした交易環境の素地が整うことで、この後、「朝貢貿易」という秩序の上に立った、大交易時代の幕開けへとつながっていくのです。
2.大国「明」の登場
こうして国際交易拠点として脚光を浴び始めた沖縄ですが、ここから大交易時代に突入していく大きな契機がありました。大国「明」の登場です。衰退した「元」に代わって大陸に登場したのが「明」。1364年に中国全土を統一するころ、沖縄では三山が抗争を極めている時期でした。1429年の尚巴志による三山統一に向かって一歩ずつ歩みを進める中、外界でも、世界秩序に大きな変化が起きていたのです。
「明」の建国は一体何を意味するものだったのでしょうか?
中国の多数を占める漢民族を、異民族であるモンゴル人が治める、いわゆる征服国家であった「元」は、漢民族と融和した穏やかな治世を目指しましたが、その後漢民族により樹立された「明」では、皇帝権力を強力に集中化するための非常に厳しい大改革を断行していきました。そして、帝国「明」を中心とした新しい世界秩序を構築すべく、強力に推し進められた政策が、まさに「朝貢貿易」でした。
朝貢貿易とは、中国皇帝の権威に服し、その証として貢物を進上する政治的・儀礼的関係を前提として初めて認められる公的な交易のこと。この手法を採れば、国家が貿易を厳密に管理しなければならないので、国家による公貿易以外を阻止し、民間人の参加を禁ずることが必要となってきます。
実際、明は朝貢貿易とともに厳しい「海禁政策」を打ち出しました。もちろんこれは、民間の中国人が行う貿易を罰するもので、中国人は全く海で商売ができなくなってしまったのです。貿易による利益をしっかり管理して国家収益の柱に据えようとする狙いもありました。
これにより、これまで交易ルートで大きな役割を果たしてきた中国商人たちが姿を消したため、これに代わる新たな勢力の台頭が求められるようになります。一方、貿易のためにすでに国外のアジア各国に拠点を置いていた中国人は帰国できなくなったため、南洋華僑の基盤が形成されるに至りました。
明は、朝貢貿易の展開により、アジア全体で自国を中心とした新たな世界秩序を構築を目指しました。さらに、これに参加した周辺国にとっては、脅威となっていた倭寇、さらには民間中国人まで海域から一掃されたことにより、帝国の保護の下、安定して交易の利益を手に入れることができる環境が整ったのです。
こうした大きな流れに、琉球も影響を受けないわけがありません。
察度の時代にすかさずこの潮流に乗った沖縄は、王国の建設とともに、国際的貿易拠点としての発展を遂げていったのです。そして、中継地に位置する琉球こそ、交易ルートを担う新たな勢力として積極的にその役割を演じていくのです。
3.これでもかという"沖縄びいき"
朝貢体制を安定したものにするため、大国・明は、東アジア海域の要石となる琉球にあらゆる優遇策を講じて、とても大切にしました。
例えば、交易のための船・進貢船も無償で明は琉球へ贈っていて、20年の間に30隻にも上ったといいます。さらには、贈った船を修理してあげたり、破損品を新品に取り換えてあげるなど、アフターサービスもかなりの充実ぶりでした。
そして、当時世界最高の航海術もふんだんに授けてくれました。航海を担ったのは、高度な公開技術を持った中国人でした。ハード面(船)だけでなくソフト面(人)まで潤沢にサポートしたのです。
進貢船や航海スタッフのサポートに加えて、琉球で交易を事務面でも支える優秀なスタッフの派遣もありました。元々中国から派遣され那覇で貿易に携わってきた「閔人(びんじん)三十六姓」に加えられて、那覇に移住して朝貢貿易を支えてくれたのでした。
これらの優遇策は、他国とは比べものにならないほど優位なものでした。なぜこんなにも明は、沖縄を大切にしたのでしょうか?
これには1つ、大きな理由がありました。明は、絶好の場所に位置する沖縄を海洋国家に育て上げることで、海禁政策により追いやられた倭寇や中国商人の「受け皿」にしようと考えたのです。実際に、明を追いやられた人々は、新天地を沖縄に求めて多くの人が流入し、活況の那覇で活躍した人も多かったようです。
さらに、明は火薬の原料となる「硫黄」にも着目していました。沖縄では、朝貢貿易が始まる前から、南西諸島域内での交易がすでに活発に行われており、硫黄鳥島のみで産出される「硫黄」も輸出することができました。加えて沖縄産の小型馬にも明の軍事的需要があり、これらを求めて沖縄との交易が重宝されたのです。
沖縄にとって絶大な影響をもたらす朝貢貿易は、明にとっても大きな利益のあるものだったため、これでもかというほど沖縄を優遇して進められたわけです。さらには、沖縄側も、明帝国のみならず、久米に築かれた民間の中国人勢力にも存分に頼りながら、交易活動を展開していったのでした。
4.三山鼎立から国家の樹立へ
東アジア海域情勢の変化に伴う「南島路」の活況、それに伴う那覇の国際交易港としての興隆、そしてその海域世界に新たな秩序を構築しようと目論む「明」の登場。ついに「朝貢体制」という新たなステージに進んだ沖縄では、むしろこうした世界の大きな流れを直接にも間接にも受けたからこそ、三山統一への推進力が増したと言えるでしょう。
沖縄の可能性に目を付けた明からの呼びかけに応じ、初めて入貢したのが1372年。この頃はまだ三山鼎立の時代で、那覇の外来ネットワークと結んで最大勢力となっていた「中山」の「察度」が遣わしたものでした。そして2代目の「武寧」が「琉球国中山王」として初めて「冊封」を受けます。これを知った山南、山北もすぐさま冊封を受けて、朝貢体制に参入しました。
こうして成立した冊封・朝貢関係は、単なる対外交易にとどまらず、沖縄の国家・社会の性格までも大きく規定する重大なものとなります。例えば、冊封を受けて授けられた「中山王」という呼称は、「武寧」自らそう名乗ったのではなく、それまでは「世の主(よのぬし)」などと呼んでいました。しかし、ここで与えられた「王」という概念を受け入れ、次第に沖縄の中でも「王」と称するようになっていきます。これは、呼び方だけでなく、統治の方法にも大きく影響を与え、権力そのものへの考え方を変容させていったのです。
三山鼎立時代から琉球王国樹立までの沖縄社会の変化は、まさに朝貢貿易のスタート、明とのかかわりが大きく影響したと言われていますが、これは一体どういうことでしょうか?
三山鼎立時代に始まった初期の朝貢貿易について、最新の研究で面白い事実がわかってきました。
先述の通り、実際の貿易活動は、造船や船の維持管理、航海、明国現地でのアテンド、そして交易に必要な文書作成などの事務処理に至るまで、ほとんどすべて中国人におんぶにだっこで進められていきました。「中山王」に続き、すぐさま「山南王」「山北王」も冊封を受け、明皇帝に認めてもらいましたが、中山の例に漏れず、南山・北山勢力ももちろん、中国人エリートたちを頼る必要がありました。一方、那覇・久米に拠点を構える彼ら中国人集団は、土着の権利から派生したものではなかったので、三山の権力闘争からは距離を置いて、どことも付き合うことができました。そのため、3勢力とも、中国人に頼りながら交易を行うことができたのです。
さらに面白いことに、北山にだけ大型船がプレゼントされなかったため、北山勢力は、主に中山の交易に「相乗り」しなければなりませんでした。抗争しているにも関わらず…。冊封されたのが「琉球国中山王」「琉球国山南王」「琉球国山北王」となっていることからも、明は、沖縄に3つの国が並立しているのはなく、1つの「琉球国」に3つの勢力があると認識していたことがわかるし、当の三山も、お互い「ゆるやかな距離感」を保ちながら共存していた様子が伺えます。朝貢貿易が始まった初期、これが三山鼎立の実態だったのです。
いわば有力按司の連合政権とも言える三山鼎立時代に始まった明とのかかわりは、沖縄の支配者たちに大きなインパクトを与えていきました。人もカネも情報も、「王」という呼称も、「国家」という概念も。急成長した那覇から、巨大な帝国、広い世界に触れた沖縄は、多くのものを一気に吸収し、そして一気に開眼したことでしょう。
那覇に及ばずとも、小さな港町として交易の実を握っていた佐敷勢力だった「尚巴志」が、この後三山統一、王国樹立を目指したのも、まさに時代の流れが生んだ必然だったと言えるのではないでしょうか。
5.大交易時代とは何か
中国の期待と、充実すぎるサポートを掴んだ沖縄は、国家「琉球」を建設しながら、貿易拠点としてもぐんぐん成長していきました。中国のみならず、日本や朝鮮とも非常に太いネットワークを築くとともに、交易ルートはどんどん伸長し、東南アジア、特に現在のマラッカ海峡にまでその範囲が及んでいきました。
こうして築き上げられた琉球の「大交易時代」とは一体何だったのか?
これはまさに琉球王国の実像を浮かび上がらせる重要な視点でもあります。
「大交易時代」は、琉球の実力や思想をもとに、単独で自発的に作り出したものではなく、明を中心とする新たなアジア海域の秩序が生み出したものでした。交易拠点としての琉球では、中国の特産品が容易に入手できるという恩恵にとどまらず、世界各地から人やモノが集積しました。異国の特産品を、別の国に売って利益を上げる「中継貿易」が、拠点としての琉球で誕生・発展することは、とても自然な流れだったと言えます。巨大な中国にどっぷり支えられながら、さらに朝鮮、日本、東南アジアの各国と密接にリンクした複雑なもので、良くも悪くも外的要因に大きく左右されるこうした構造をはらんでもいきました。つまり、琉球はアジア各国との運命共同体になりつつあったわけです。
つまるところ、「大交易時代」は中国のおかげで、沖縄は甘えていただけなのか?
もちろん、決してそんなことでもありません。
中継地に位置する琉球は、明が創造する秩序の”関節”として、重要な役回りを求められ、琉球も積極的にこれを買って出たわけです。しかし…
船も、船員も、交渉人も、文書作成も、ほぼすべて中国人に頼り切っていた琉球が、はたして「積極的に」重要な役回りを買って出たといえるのでしょうか?
最初こそ明のサポートに頼り切って慌てて走り出したものの、琉球を侮ってはいけません。琉球には、「すべて自前でノウハウを揃えて、利益を囲い込む」というような発想は初めからありませんでした。すなわち、大国・明の世界秩序構築の力学を、柔軟に受け入れて勝ち馬に乗っていく方針だったわけです。
ここで比較すべきは日本の対中外交です。当時の日本は、天皇を中心とする独自の世界観を守ろうとしたため、明皇帝に服して朝貢貿易に参加していたとはいえ、尊大な態度で対応することしばしばでした。しかし、当然これでは外交は円滑に進みません。かといってお互い戦争するほどの大義名分もありません。一方で琉球は、これでもかというほど中国のサポートを引き出し、上手に甘えながら、交易をどんどん発展させていったのです。
琉球の対日戦略も眺めてみると非常に面白い。
室町幕府は国力の及ばない明にも盾突く始末ですので、当然琉球に対しては上から目線でした。大交易の流れにあって、琉球は日本との交流も一気に増えていきましたが、明に服し、中国人を積極的に受け入れて活用していったように、幕府のひどい扱いにもめげず、下手下手にうまく付き合いながら、日本人をも那覇の国際センター「浮島」に積極的に受け入れ、対日貿易のむしろ主力助っ人として重宝していきました。中でも僧侶が活躍することが多かったようです。当時、寺院は日本でも武士に並ぶ勢力層で、その上勉強が民主化されていない時代、読み書き計算の能力を持つ人はやはり僧侶に多かったのも大きな要因でした。
朝鮮に対しても、琉球は「付き合い上手」を存分に発揮しました。
では、朝鮮王朝との交易においては、琉球は誰を頼ったのでしょうか。
実は、海賊「倭寇」でした。
ちなみに海賊と言っても現代のイメージとは少し異なります。治外法権である海上での商売は、武力、技術、知恵をしっかり備えていなければ容易に手の出せないもの。朝貢貿易によって締め出される前までは、実力と実績を持った「倭寇」が海の覇者だったのです。彼らは「倭=日本」の名前こそ付いてますが、交易を商売にしているので、各国に拠点を持って幅広くネットワークを築いており、朝鮮への航海をさせたら最強勢力です。海禁政策による締め出しの憂き目にあってバラバラにされてしまいますが、琉球は、その那覇に流れてきた彼らをも、巧みに利用したというわけです。
さらに、朝鮮王朝との関係も柔軟にこなしました。明から見れば、ともに朝貢国として兄弟のような同列扱いだったのが、朝鮮から見れば琉球はやはり手下とされました。それでもうまく付き合えた琉球は、朝鮮との間でも着実に交易の成果を挙げていったのでした。
一方で、不思議なことに、例えば九州の勢力が琉球の交易に参加して分け前を得ようと乗り込んできた時には、彼らを琉球の下位として、琉球が交易の許可を出す形をとりました。これは島津家が九州を制圧し、琉球入りを実行するよりだいぶ前の話で、当時分散して小さかった九州豪族たちの権力に対しては、しっかりと自らを上位とする秩序を敷いて対峙したのです。
つまり、あらゆる相手に囲まれながらも、相手独自の理論を琉球は柔軟に「利用」しながら、上手にマネジメントしていったわけです。これは、決して心から服したり、逆に完全に従属させたりすることにこだわるのではなく、交渉相手の理念や利害を「我がものとして利用」したと言えます。
6.琉球王朝の「実像」
交易拠点として各国と渡り合う、この沖縄の柔軟なスタンスは「持たざる者の悲哀」と表現することもできるでしょう。あるいは「名を捨てて実を取るしたたかさ」と表現することもできるでしょう。むしろ、その両方を包含した、一言では表現できない、複雑で奥深い「しなやかさ」ともいうべき世界観が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
こうして琉球は、他国を中心とした外来の秩序にも寛容に対応し、巧みに時流に乗っていったわけですが、同時に、王朝建設という一大プロジェクトにも取り組まなければなりませんでした。
当然、国内の王朝建設でも、外来文化をふんだんに取り入れながら、一方では、複雑で奥深い「しなやかさ」を存分に発揮し、結果的にとてもユニークな歴史を作っていったのです。
例えば、信仰文化。
国際都市となった那覇を窓口に流入してきた外来宗教は、古くから伝わる在来信仰と共存し、融合し、独自の信仰文化が形成されていきました。
沖縄には、女性優位の霊的信仰である「オナリ神信仰」や、東の海の先に別世界があるとする「ニライ・カナイ信仰」といった信仰文化がもともと根付いていましたが、特に大交易時代が始まるや、那覇を中心に様々な信仰文化が持ち込まれました。もちろん、在来信仰はこうした外来の宗教とは異なるものですが、さすが「しなやか」な琉球、互いに相克することもなく、穏やかに共存していきました。
外来宗教施設として代表的なものが「琉球八社」ですが、このうち7つが那覇に偏っていること、さらに7つが熊野信仰という仏教と神道が結びついた系統に偏っていることが特徴に挙げられます。こうした独自の形態が沖縄特有の文化となってそのまま現代まで引き継がれてきたのです。
一方、なんでも柔軟に受け入れられる沖縄ですが、実はそう単純でもありません。
例えば、イスラム教やキリスト教の文化は沖縄で広く根付くことはありませんでした。特にイスラム教はほとんど痕跡もありません。イスラム教徒が来なかったからかもしれませんが、例えば中国での琉球人の拠点だった泉州には、大きなムスリム勢力があり、その文化には大いに触れたはず。キリスト教も、島津氏侵入以降に禁教令があったとはいえ、それ以前にも布教の成果があまり確認できないようです。
そもそも、東アジアの広大な地域に足を延ばした琉球人は、当然この2つ以外にもたくさんの信仰文化に出会ったことでしょう。しかし、なんでもかんでも受け入れることはありませんでした。
ではなぜ、熊野信仰やイスラム・キリストで大きな差が生まれたのでしょうか?
大きな理由は、古くからの在来信仰との親和性にあるのではないかと考えられています。つまり、海の先や地中深くに別世界が存在するという考え方や、男性より女性に霊力があるとする考え方など多くの共通点が見出せるので、徐々に融合していくことができたのです。
信仰文化の他にも、あらゆる面で外来文化が融合し、ユニークな国家を形作っていきました。
琉球政府の整備した官僚組織は、中国のそれとはまったく異なる琉球独自の体制でしたが、国王はじめ公人たちの行う儀礼や服装は、中国文化を色濃く反映したものでした。特に「冊封」を受ける国王は皇帝から与えられる「冠服」に身を包んで公の場に臨みました。一方「暦」は中国から与えられた暦ではなく、日本の暦をベースにしていて、やはり琉球独自のルールで運営されていました。その他、首里城にしても、装飾には中国の文化や技術が色濃く反映されている一方、万国津梁の鐘に代表される仏教文化の浸透も多く確認することができるなど、外来文化を吸収して独自の世界観を構築した例は、挙げるとキリがないほどです。
交易の時代に脚光を浴び、独自の地位を確立していった琉球。その王朝内部の「実像」も、海外とのかかわりを通して大きな視点に立つことで、ユニークな文化形成の本質が浮かび上がってきます。
複雑で奥深い「しなやか」な琉球王朝の姿。これこそ、現代にもつながる沖縄のアイデンティティの神髄なのではないでしょうか。
7.激動の海洋情勢に揺れる琉球
大交易時代の波を最もうまく乗りこなした琉球の勢力は、東南アジアの国々、そして遠くマラッカ海峡にまで及ぶことになります。15世紀にアジア屈指の貿易大国「マラッカ」は、16世紀初頭にポルトガル人に征服されましたが、それまでは琉球の重要な貿易相手国でした。マラッカに乗り込んだポルトガル人トマ・ピレスは、琉球人について、こう書き残しています。
・ゴーレス(琉球人)はすばらしい商品とともに黄金をマラッカにもたらす
・口数少ない人々で、自分の国の事情について他言することがない
・住んでいる国はレケア=レキオと称される
・彼らは勇敢な人々でマラッカでは常に畏敬されていた
・マラッカの人々はゴーレスを最も良き人々で中国人よりも裕福かつ正直だと語っている。中国人よりもいい服装をしていて気品がある
・彼らはたとえ全世界と引き換えでも自分たちの仲間を売るようなことはしない、彼らはこれに死を賭ける
・レキオ人は代金を受け取る際、もし人が彼らを欺けば、剣を手にして代金を取り立てる
広大な海域世界で、威風堂々、その地位を築いてきた先人たちの姿が眼前に浮かんできますね。巨大な中国を頼りながら、朝鮮、日本、東南アジアの各国と密接にリンクした「中継貿易」を産業の柱とする琉球は、まさにアジア各国との運命共同体でした。だからこそ、先人たちはちっぽけなプライドを捨て、各国との関係を重んじ、丁寧に振る舞い、これだけの尊敬と誇りある地位を得ることに成功したわけです。
アジアと運命を共にする中継貿易国家・琉球はつまり、海域世界の秩序が乱れてしまえば、必ず巻き込まれてしまう運命にあったとも言えます。
琉球王朝が栄華を極めたのは、第二尚氏王統・三代目の「尚真」期でしたが、このころすでに交易の隆盛はピークを越え、下降線をたどり始めていました。アジアの海にまた新たな大変化が兆しを見せ始めていたのです。
ここで迎える新たな事件を「嘉靖の大倭寇」や「倭寇的状況」とも表現します。大交易時代衰退のきっかけもやはり、「倭寇」でした。
まず、琉球の中継貿易が衰退期に入る契機となったのは、明の優遇政策の後退にありました。海禁政策によって日本海域の倭寇問題が片付くと、琉球を保護する必要性がなくなってくるからです。
中国からのサポートは減り、朝貢回数も1回あたりの物量規模も、徐々に減らされていきました。産業の中心がみるみる衰退する琉球には大打撃です。手を変え品を変え、様々に工夫して明のサポートを得ようと必死に交渉するもむなしく、優遇策の後退を食い止めることはできませんでした。
こうした中、中国以外の地域でも大きな変化が訪れます。
それは、「銀」貿易ブームの到来。これが、これまでの海上商業の形を変革するほどの大きなうねりになっていったのです。
きっかけは日本の銀山でした。16世紀中ごろ、日本の「石見(いわみ)銀山」で、良質な銀の大量生産に成功すると、当時経済システムの変革に伴い銀貨幣が必要な明の需要と見事にマッチし、日本から中国へ大量に銀が輸出されるようになります。さらには同時期に、スペイン人によって南米でも銀山が開発され、これまた大量生産された銀まで中国へとなだれ込んでいきます。この大量消費が銀の価格を下げてくれて、中国では銀が主要貨幣として一気に全土に浸透していったと言います。
この「銀」ブームの波に乗ったのが、まさに「倭寇」でした。明の海禁政策で大打撃を受けた彼らは、権力をかいくぐり、時には明の地方役人にも取入りながら、したたかに私交易を続けていましたが、ついに「銀」ブームで一気に息を吹き返し、再び海で実権を握り始めたのです。
中国沿岸部では、次々と倭寇を中心とした私貿易拠点が発展を見せます。これには明も黙って手をこまねいているわけにはいきません。堪忍袋の緒が切れた明政府は、ついに私貿易拠点の徹底的な粛清、弾圧に乗り出します。しかし皮肉なことに、打撃を受け無秩序となった沿岸部では、全く統制がきかなくなり、弾圧を契機に暴徒化した倭寇勢力が各地で略奪や破壊を繰り返す、いわゆる「嘉靖の大倭寇」が起きてしまいました。明政府も踏ん張り、後々各地の倭寇勢力はほぼ壊滅させられるものの、裏では貴族や役人までも手を染める私貿易が根絶されることはありませんでした。むしろ、この後には倭寇弾圧の功績を上げた幹部が失脚するとともに、私貿易の制限解除の主張が次第に強まっていったのです。
この時期は、ポルトガルのマラッカ入り、スペインの南米入りをはじめとするヨーロッパ大航海時代の幕開け。その流れの中で、「銀」を契機に東アジア海域の勢力図も大きく変化し始めたわけです。これはまさに、朝貢貿易を中心とした国家による統制経済の世界から、ダイナミックな民間パワーの生み出す市場経済の世界への大変革でした。
あくまでこれを弾圧しようとする国家権力のスタンスにはやはり限界がありました。私貿易の制限解除の要請が徐々に強まる明では、1560年代、約200年続いた海禁政策がついに解かれ、私貿易が認められた地域では空前の経済発展となりました。
海禁政策の解除前には、琉球でも倭寇を取り締まるよう再三明から要請を受けたのですが、実際には行動することはできませんでした。それは、貿易が大事な琉球政府にとって、倭寇勢力も大切な貿易相手だったからです。したたかな琉球は、倭寇と対峙するというよりはむしろ、目立たないようにちゃっかり貿易を行っていたのでした。
8.必死の琉球に忍び寄る島津氏の影
明の優遇政策の後退から苦境に立たされていた琉球は、海禁政策の解除によりさらなる痛手を被りました。時代は、各地の特産品を中継する国家間貿易から、銀を中心とする民間主導の新しい貿易体制へと変化し、「中継貿易」は時代に合わず衰退を余儀なくされたのです。それでも貿易相手も変化させながら必死に工夫して交易活動を続け、復権を目指しました。しかし、挽回することはなかなかできずにいました。
そんな中、日本では戦国の世に突入。
九州を制圧し、そんな乱世の風に乗ろうと企む島津氏は、ついに琉球に目をつけます。交易による発展著しい16世紀の前半には、琉球に頭を下げていた九州勢でしたが、島津氏の勢力にまとまると、16世紀後半から、衰退する琉球に対して一転、高圧的な態度を強めていきます。
秀吉や家康の絶対的な権力をバックに琉球を責め立てる島津氏に対して、琉球も、慌てながらも、幕府や明政府との間をうまく立ち回りながら、島津氏の攻勢になんとか対抗しようとしますが、1609年、ついに侵攻を許してしまいます。
この時、琉球は武器も持たずにたった数日で首里城を明け渡したかのように思われがちですが、決して何もせずにただ降伏したわけではありません。那覇を中心に水際で食い止める方針の下、軍備も増強して万全の体制で備えたつもりでしたが、九州を制圧した歴戦の島津軍は、やはり一枚も二枚も上手だったのです。水際で迎え撃つ琉球軍に、島津軍は海と陸との二方面作戦を展開。陸からの攻めに慌てた琉球軍は、首里城の守りが手薄となり、結局劣勢を挽回できず首里城は陥落。島津侵攻はあっけなく完遂されたのでした。
いかがでしたか?
アジア、世界を包む大きな視点で捉える沖縄。
特に、琉球王朝の誕生、そして栄光と悲劇のストーリーは、「海」をテーマに俯瞰することで、より一層ダイナミックでドラマチックな物語を見せてくれます。小さな島嶼国が「海洋国家」として堂々たる時代を築いていく力強さや、自らの意志ではどうにもならない激動世界と運命共同体にあった悲哀は、まさに沖縄独特の歴史の彩りでした。
そして、そこに浮かび上がってくるのは、いまの沖縄のアイデンティティの源泉とも言える、複雑で奥深い「しなやかさ」。入り乱れる外来文化を主体的に、選択的に受容しながら、沖縄独自の世界観が様々な形で花開き、現代にもそのアイデンティティをつないでいるように感じます。
ここからの琉球は、表面では独立国として中国と交易しながらも、内実は薩摩・江戸幕府に従属するという、屈折した苦境の歴史を歩んでいくこととなります。どんどん貧しくなる厳しい現実の中、琉球は一体何を信じ、何に希望を見出して歩んできたのか。
次回は、近代琉球の困難な時代を見つめていきます。どうぞお楽しみに♪