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本当の「沖縄の魅力」に迫る歴史探検の旅②【自然と調和した奇跡の楽園】

前回は、私たちの祖先がそもそも一体どこからやってきたのか、という最も原始的なテーマで、3万年以上も前の勇猛果敢な大航海をご紹介しました。あくまでこれはまだ説の1つで、有力ではありますが100%ではありません。とはいえ、こんな誇り高き先人たちの壮大なストーリー、ワクワクせずにはいられませんよね。
続く今回は、そんな先人たちがいかにして沖縄での生活を定着させていったのか、という沖縄の先史時代にスポットを当てていきます。実は、ここにはなんと、驚くべき「奇跡」の数々が隠されていました。未開の島々にたどり着いた先人たちが築く、世界でも類稀なる「島嶼文明」が最新の研究で次々と明らかになってきたのです。さあ、さらなる感動を、あなたにも。

【シリーズ"沖縄の歴史"】
本当の「沖縄の魅力」に迫る歴史探検の旅へようこそ【⓪導入編】
本当の「沖縄の魅力」に迫る歴史探検の旅① 【沖縄のあけぼの】

1.そもそも3万年前にすでに人がいた、という奇跡

北は種子島から、南は与那国島まで。連なるように並んだ列島には、3万年前あたりからすでに人々が存在していたことが確認されています。実はこれ、世界的に見ても、非常に珍しいことなんです。最新の研究によれば、同時期で人間の消息が確認されている島は、沖縄を除くと世界でも10~15だと言われています。しかし、奄美・沖縄諸島では、現時点ですでに8つを数えるのです。3万年前と言えば旧石器時代と呼ばれる時期。火や言葉を扱い始め、高度な道具を開発し、ついに農耕技術を手に入れた約1万年前よりもだいぶ前です。すでに人が暮らしているということは、大陸あるいは他の島から渡ってきたということ。前回紹介したような大航海が沖縄、奄美の島々で繰り広げられていたとしたら、これほど奇跡的なことは世界でも類を見ないと言えるかもしれないのです。

列島全体にわたっておよそ3万年前の人々の消息が確認されている
(READY FOR【完結編】国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」より)

学問的に、人が暮らしている、ということをもう少し深く、確実に捉えるには、人々の生活が、いつどのように「定着」したのかを確かめる必要があります。つまり、3万年前の人骨は発見されていますが、これだけでは不十分。彼らの生活が脈々と受け継がれていく様子が確かめられて初めて、「○万年前から人々が暮らし始めた」と言える段階に至るです。人々の生活が「定着」し連綿と継続しはじめたのはいつなのか、どこかで断絶している様子はないのか。こうした検討が必要なわけです。

では、生活が定着し始めたということを、一体どのように突き止めるのでしょうか。専門的なアプローチの方法を少しご紹介してみましょう。
代表的なものが、土器です。土器を詳しく観察すると、細やかなデザインの変化がたくさん確認できるようで、土器の特徴やその変遷を追いかけることで、地域性や文化の変遷が深く推測できるというのです。これまで沖縄で出土した土器については、突発的な変化というものが認められず、時系列で並べると連続的に変遷してきた、つまり、人々の生活様式は連続して少しずつ移り変わってきたと言えるようです。その起源は7000年前に求められるので、この頃から人々の生活が「定着」したという有力な説が提唱されています。しかし、これもまだ結論は確定していなくて、7000年前よりもさらに古いを思われる土器が最近相次いで出土するなど、現在も研究が進められているところです。土器によって解き明かされる、世界でも珍しい、旧石器時代の島国の生活。今後の更なる研究成果が楽しみですね。

2.狩猟採集という暮らし

人類の歴史を語るとき、「農耕」の発明は、最も注目すべき出来事だと言われています。この広い世界で起こる様々な出来事が彩りある歴史を形作ってきましたが、「農耕」ほどその影響が大きいものはありませんでした。沖縄でも、いつから農耕が始まり、生活が変化してきたかを考えることが非常に重要なのです。
最近では、沖縄で農耕が始まったのは10世紀~12世紀であることがわかってきています。これは、いろんな年代の遺跡や地質を調べ、9世紀以前のものとして出てくる植物が、すべて農耕による作物ではなく野生の植物であることから推測しています。
なるほど、と思う前に、よく考えてみてください。不思議な感覚になりませんか。10~12世紀というのは、聖徳太子のいた飛鳥時代(6~8世紀)や天平文化の栄えた奈良時代(8世紀)を経て、「源氏物語」が生まれ貴族文化が華ひらく平安時代(9~12世紀)のころ。世界史でいうと、中国では技術革新や経済発展を遂げた大国・宋王朝が君臨し、ヨーロッパではカール1世を戴く神聖ローマ帝国が誕生し、まさに中世史が繰り広げられているといった時代です。日本や世界各地で豊かな文化が展開されているころ、沖縄ではようやく農耕を開始した、それまではずっと狩猟採集の生活だった、というわけです。一見、沖縄の人々は進歩が遅かった、野蛮な暮らししかできなかったかのようなイメージを抱いてしまいそうになります。

しかし、それはとても短絡的で、誤った捉え方。実は、島に暮らす先人たちは、日本や大陸の人々とは比較にならない、独創的な生活を営んでいたことが科学的にわかってきました。
例えば、そもそも土地面積の限られた島で狩猟採集の生活を営むことは、とても難しいことが知られています。似たような島を世界中探しても、数は少なく、加えて沖縄の島に比べて面積が広いところしかないといいます。これは、限られた土地で効率的に食料を生み出す農耕を行っていないわけなので、その土地に植物や動物が人間の生命維持に必要な分揃うだけの広さが条件となりますが、この条件に対して沖縄の島々は狭いというのです。
他にも、例えば熱帯雨林地域は、食料としての動物は豊富でも植物資源には乏しいとも言われていますが、亜熱帯にある沖縄もこの条件に当てはまってしまいます。また、世界の他の島の例では、大陸に近く、島に植民する際に動植物を持ち込んでいるといったことが確認できますが、沖縄ではそのような形跡は見当たりません。つまり、世界の常識から考えて、沖縄のような小さな島で独自に狩猟採集の生活を送ることは非常に難しいはずが、数千年あるいは1万年という長期間にわたって、このスタイルが伝承されてきたというわけです。

3.あえて農耕を拒んだ?

ここでさらにもう1つ。面白い事実をご紹介しましょう。
1世紀ごろの弥生時代から800年にも及ぶ長い期間、「貝の道」とも呼ばれる、沖縄と本土で交易活動が活発に行われていたことがわかっています。南の島で採れる巻貝は、農耕を契機に発達したムラ社会のリーダー・豪族たちの権威を象徴する装飾品としての需要を満たしたのです。代わりに農耕をしない沖縄の人々は、米などの食料のほか、鉄器やガラス玉などを入手していました。つまり、農耕が始まる1000年近くも前から、とっくに農耕の存在は知っていたわけです。「貝の道」による貿易に限らず、台湾や中国大陸とも全くコミュニケーションがなかったわけではありません。しかし、沖縄の人々は、農耕には飛びつかなかった、あるいは農耕を拒んだとも言えるのです。10~12世紀ごろ、沖縄では一気に農耕がスタートしますが、一体なぜ、先人たちはそれまで長い間、農耕を受け入れようとしなかったのでしょうか。

沖縄の先人たちは「農耕」を長い間受け入れなかった

これにはまだ、明確な答えが見つかっていません。おそらく大変な農耕を始めなくとも、豊かな生活が送れるだけの恵まれた環境があったからではないかと考えられています。もし、生きていくのに十分な食べ物が無ければ、好むと好まざるとにかかわらず農耕という手段を選ぶに違いないのです。科学的には、農耕よりも狩猟採集の方が多くの点で「楽」なので、資源が豊富な場合はあえて面倒な農耕を選ばない、つまり農耕へ移行しないのは自然が豊かであったからだと結論付けます。とはいえ、日本や大陸からもたらされる米を食べた人々は、その美味しさや便利さに感動したのも間違いないでしょう。農耕のすばらしさに触れ続けているわけです。それでも、彼らは1000年もの間、この魅力に手を出しませんでした。なぜか…。
これ以上のことは想像の域を超えませんが、ここに何か、大きな強い意志のようなものを感じずにはいられないと思ってしまうのは、私だけでしょうか。

4.人と自然が調和した、奇跡の楽園

なぜ長い間農耕の魅力を知っていながら受け入れようとしなかったのか。まだ明確な答えのないこの問いを、さらにミステリアスにしてしまう、驚きの発見をみなさんにご紹介しましょう。
学問では今のところ全く説明のつかない、人と自然が調和した「奇跡の楽園」が、ここ沖縄の島々に広がっていたのではないか、というのです。

およそ10万年前より、アフリカ大陸から飛び出した私たちの祖先は、新天地を求めてあらゆる地域にその足を延ばしました。そして同時に、移り住んだ地域の環境をことごとく破壊もしてきました。5万年前に進出したオーストラリアでは、60種以上の動物たちが絶滅し、耕作地確保のため森林に火入れをしたことにより、植物たちの性質まで変化させてしまいました。1~2万年前に進出したアメリカ大陸でも、植民によって20種以上の絶滅が確認されています。これらはほんの一部の例であって、人が到達した地域では多かれ少なかれ必ず起こる現象と言えるでしょう。
広い大陸ですら影響が大きいのだから、島の自然環境に対する人々の影響はさらに顕著であると考えられます。島嶼環境というのは、海で閉ざされた狭い空間の中で、何十万年、何百万年という長い月日をかけて創り上げられた、絶妙なバランスの上に成り立つ非常にデリケートなもの。ちょっとした攪乱で環境は一気に激変してしまうと言われているのです。そこに、人間が到達すれば、必ず環境に大きな負荷をかけてしまうわけです。

かつての森林が植民によって草原と化したイースター島

世界には、古くから人が移り住んだ島がいくつか確認できます。地中海、オセアニア、カリブ海に浮かぶいくつかの島々です。人間が進出したこれらの島々で起きた自然環境の変化は、いかなるものであったか。―ほとんどの島で、何十種、何百種という多くの動物が絶滅したことがわかっています。地中海のある島では、一時期動物がほぼ絶滅し、その後絶滅が確認されていないことから、この時期以降島に人間がいなくなったと結論づけているほどです。
自然に大きな負荷がかかるのは、農地開発や燃料調達として森林を破壊することが最も大きな要因ですが、農耕民のみならず、狩猟採集民もまた、環境に少なからず影響を与えることが知られています。例えば、乱獲により絶滅した種もいれば、絶滅しないまでもサイズがどんどん小さくなるといった影響は多く種で確認できるようです。農耕民ほどではなくとも、やはり人の生活は自然環境に一定の影響を与えてしまうものなのです。

では、沖縄ではどうだったのか。
沖縄でも海外と同様の技術で研究が進められていますが、私たちの祖先が島に渡って以降、動物の絶滅は「無い」といいます。例えばアマミノクロウサギは、およそ4000年前から人間の食料となっていたことがわかっていますが、現在もなお奄美地方に生息しています。また、人々の食べ物の変遷を分析しても、資源が枯渇するような状況はなく安定していたようだし、貝などのサイズを調べてみても、一方的に小さくなるような状況はないようです。さらに、例えば沖縄本島の自然環境を分析すると、農耕が始まるグスク時代初期まで、ほとんどが森林に覆われ続けていたこと、そして、この時期まで土壌流出といった人為的な変化がほぼ無いということなどがわかってきました。
当時が狩猟採集の生活であったとはいえ、これだけ自然への影響が「最小限」である事例は、なかなか他に見つけることができません。沖縄の先人たちの暮らしは、それだけ奇跡に満ちた楽園であったことを物語っているかもしれないのです。
科学的に証明できるものではないかもしれませんが、沖縄で暮らした人々は、太古の昔から大自然の恵みに抱かれて、豊かな毎日を送っていたのかもしれません。

豊かなやんばるの大自然(環境省HPより)

5.大変革―農耕始まり、グスク時代へ

古くから農耕の存在を知りながらも、母なる大地に守られながら自然と共生する道を歩んできた先人たち。世界にも例を見ない彼らの生活は「島嶼文明」とも呼ぶべき、豊かでユニークなものでした。しかし、この長く続いた穏やかな時代は、10~12世紀についに農耕の開始により幕を下ろし、徐々に激動のグスク時代へと変遷を遂げていくのです。大変革を迎えた沖縄では一体何があったのでしょうか。

農耕を始めるためには自然に手を入れ、環境を壊して農地を開墾することから始まります。さらには労働力を集約する必要もあります。こうして組織的な社会が構築され始めると、集団同士の交易も増えれば、余剰分の略奪、土地の争いもまた徐々に増えていくものです。それまでの狩猟採集の穏やか生活様式が少しずつその姿を変えていくこととなります。狩猟採集から農耕への移行というのは、例外なく、人間自身にとっても自然環境にとっても、すべての面においてまさに大変革なのです。
農耕民の近くに住む狩猟採集民に、なぜ農耕をしないのかと問うと「あんなめんどうくさいもの…」と答えが返ってきたというのは、人類学者の間では有名な話。限られた土地で効率的に食料を生産でき、余剰を取引することで自らの生産物以外の資源も手に入れることができる、人間だけになせる画期的な技術が、農耕です。しかし、生産には何しろ非常に労力がかかります。いきなり思い立ってこれを選択するのではなく、一般的には「食糧難」にさらされたときに農耕に移行するということが知られています。狩りの方法を変えたり場所を変えたり、それでも立ち行かなくなって追い込まれたときに、革新的に農耕への移行が起こるわけです。

しかし、沖縄では「食糧難」は発生していませんでした。むしろ自然と共生する中で、食料は豊富で安定していたと考えられています。自然環境は、農耕への移行を契機にそのバランスが崩したということが明らかになっているのです。生活の革新を生んだ要因は、食糧難ではなく、一体何だったのでしょうか。
さらに、沖縄での農耕への移行に関してわかっていることが大きく2つ。とても短い期間に「突然」広まったこと、そして、「北から南へ」と広まっていったことです。10~12世紀に農耕が始まったと考えられているのは、その時期を境に出土する食料が変化するからで、10世紀以前の遺跡や地層ではドングリなどの野生植物のみだったのが、10~12世紀以降では野生ではない農作物が一気に増えることからこのように推測されています。沖縄では、その変化の仕方が「突然」だと言います。つまり、変化する期間がとても短く、他の地域にあまり類を見ないほど早いスピードで一気に変わっていったというのです。そして、変化した年代を詳細に調べて時系列に並べていけば、北から南へと順に島々を伝って変遷していった様子が見えてくるのです。
きっかけは「食糧難」ではなかったこと、移行は「突然」で、「北から南へ」と伝っていったこと。これらをヒントに、どのようなことが推測されるのでしょうか。

6.農耕をもたらしたのは…外来の異民族だった!

今までわかってきた事実をつなぎ合わせると、1つの有力な説が浮かび上がってきます。それは、沖縄に住む人々が農耕を始めたのではなく、本土や大陸から渡ってきた民族が植民することによって一気に農耕が広められた、という考え方です。これなら、「食糧難」でなくとも、「突然」に「北から南へ」と農耕が広まるという解釈ともつじつまがピッタリ合いそうです。これには、別の研究でも裏付けがなされています。
1つは、体の特徴を分析する「形質人類学」という研究アプローチ。実は、農耕移行前の先史時代の人骨と、農耕移行後のグスク時代の人骨では、例えば今でいう沖縄人(うちなーんちゅ)と本土人(ないちゃー)以上の違いがあると言います。つまり、ある時期に沖縄に、差異の大きな異民族が入ってきて、地元民に取って代わった、あるいは混血していったことを示唆しているのです。
もう1つは、「言語学」です。沖縄の方言(沖縄の言葉)と標準語(本土の言葉)は大きな違いがあるように感じますよね?でも、ルーツは一緒なんです。過去の古い言語を詳細に分析して整理した結果、「日本祖語」という共通の祖先から派生して、長い時間をかけて沖縄の言葉や本土各地の言葉となって差が生じたことがわかるそうです。さらに面白いのは、「日本祖語」から「琉球方言」が分岐したのが2~3世紀で、これが九州に一時的にとどまり、10世紀前後に沖縄に渡ってきたこと、さらにはその変化が「突然」であることまでわかると言います。つまり、沖縄の言葉も、農耕も、本土や大陸の異民族によってもたらされたというストーリーが、とてもよく重なるのです。

様々な研究の成果を寄せ集めると、どうやら大陸や本土から異民族が沖縄に植民した様子が見えてきました。このとき、どんなドラマが繰り広げられていたのか、私たちは知る術がありません。中国大陸から日本に稲がもたらされて弥生時代を迎えたように、進化の恩恵を望んでありがたく享受したのか。薩摩による琉球処分のように、抗おうにも術なく力に屈服した結果だったのか。想像しても意味がないと言われるかもしれませんが、農耕という大変革を遂げた先人たちに、思いを馳せずにはいられません。

もしかすると、戦に敗れた平安時代の武士が沖縄に植民したのかもしれない…


いかがでしたか?
農耕の開始というのは、とてつもなく大きな変革でした。人間にとっても、自然にとっても。先人たちはこの大きな変化を、あえて拒んできたにもかかわらず、ある時異民族によって一気に広められていきました。沖縄の人々の意識が変わって受け入れるに至ったのか。あるいは、抵抗したにもかかわらず受け入れさせられたのか…。最も重要な核心は、未だベールに包まれたままです。
そしてこれを境に、沖縄の生活や文化は一気に変貌を遂げていきます。人間集団は徐々に組織化され、成長したムラ社会は絶えず争いに明け暮れ、まさに動乱の時代へと突入していくのです。そして、社会の急速な発展の先に、ついに琉球王国の誕生を迎えます。

次回は、東アジアに花開いた「琉球王国」を紐解いていきます。自然と調和した穏やかな時代を卒業した沖縄が、その後どのような社会を描いていくのか。王国の栄光と悲劇の物語、どうぞお楽しみに♪

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