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自主自立の精神とエネルギーにあふれる「明和義人」

例年であれば、8月頃をピークに各地域で花火大会や盆踊りなど夏祭りが行われ、賑やかさを感じていましたが、今年はコロナ禍ということもあり、お祭りをはじめ様々なイベントが中止となりました。

このnoteの第一回目の投稿で、私の家が新潟市の中心部にあるお宮を代々守っている事について少し触れましたが、その神社を中心に毎年8月下旬に行われる「明和義人祭」も今年は慰霊祭を粛々と行うのみで、大勢が集まる行事は全て中止になりました。

この「明和義人祭」というお祭りは、古町愛宕神社の境内社口之神社で祀る「明和義人」を慰霊・顕彰するお祭りです。行事は中止になりましたが、明和義人とその活躍を伝承する一つの機会として、noteで紹介したいと思います。

「明和義人」「明和騒動」とは

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江戸時代、18世紀の半ばに「明和騒動」という出来事がありました。当時新潟湊は長岡藩が治めていましたが、藩は財政悪化に苦しみ新潟湊に重税を課しました。その重税に苦しむ町人の暮らしを救うために、町人が自ら立ち上がり、藩に代わって2カ月に渡り町民による自治が行われました。その時に主導的な役割を果たした中心人物が「涌井藤四郎」と「岩船屋佐次兵衛」の二人です。この二人はその後捕らえられ、打ち首になってしまいましたが、新潟町の人々は町のために尽くしたのに、理不尽に厳しい処罰を受けた二人を義人として崇めました。とはいえ、藩が処罰した人物を町民が堂々と義人として讃えることが憚られる時代が続いたようで、二人の活躍は誇るべき史実として古町芸妓の口伝により密かに伝えられてきました。そして明治時代に入ってからようやく口之神社に祀られるようになりました。

何百年も前の新潟で、このような偉業が成し遂げられていたのです。明和義人やそうした自主自立の精神とエネルギーにあふれる住民自治の歴史を慰霊・顕彰しようと始まったのが明和義人祭です。

晩夏の風物詩「明和義人祭」

明和義人祭は2008年に古町愛宕神社・口之神社の境内の中のお祭りでスタートしました。その後、上古町の商店街の皆さんと協力して実行委員会を設立し、徐々にエリアが広がり、昨年は1番町から6番町までの自治町内会や商店街振興組合の協力を得て開催していました。

お祭りは商店街を歩行者天国にして、子ども遊びや飲食屋台、古町芸妓の舞、蜑(あま)の手振り(奉納盆踊り)など一般の方々も楽しめる様々な行事が開催されてきました。毎年お祭りの主役として涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛役として選ばれた人が義人に扮し、古町芸妓や当時の衣装を身に付けた神社の関係者、稚児などと共に古町通りを練り歩く明和義人行列は江戸時代を彷彿とさせています。また、福のおすそ分けとして参加者にまいて振る舞う「明和神菓まき(お菓子まき)」は日本最大級の規模(昨年は約3万個のお菓子が振る舞われました)と言われておりますが、子供だけに限らず大人も大勢参加する恒例の人気のプログラムです。 

明和義人祭は、地域にようやく定着してきた晩夏の一大イベントで、私にとっても季節の移ろいを感じる風物詩でもあります。今年は過ぎていく夏を感じる機会を失い、少し寂しさを感じています。また、お祭りを通してその地域の中で様々な交流が生まれ賑わいが創出されると共に、自分の地域の事を考えたり、知ったりする大切な機会でもありますので、催し物を開催できないのは大変残念です。

コロナ禍による国難が一刻も早く収まり、また夏祭りが各地域で行われ、人々の笑い声を聞くことができる、幸せな生活を取り戻せる事を願っています。

<昨年の明和義人祭の様子>

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