白い楓(22)
「論点を明瞭にしてもらえるかい」
ここでようやく明が真剣になりはじめた。……やはり、柴田隼人の言ったように明は俺より頭の回転が遅いらしい。作者である彼は、自分で作り出した存在のつむじからつま先までを語ることが可能で、そうであるから神なのだった。
成人に遅れて後ろから歩く幼児を見るとき、その知能の遅れを感じて、愛撫することもあろうが、それは幼児の知恵の不足への嘲笑とまじりあう、ミルクティーのような感情として表出している。そんな風に、明を蔑む気持ちを伴って話を再開させた。
「俺達が殺してしまった男、柴田隼人は、俺達が住む世界の創造主なんだ。
書物を嫌うお前でも、小説や映画のようなものが虚構と呼ばれ、それがこの世界とは別の次元で動くことぐらいは知っているだろう。虚構が存在するためには、筋書きを組み立てる人間がいなければならない。彼らは、自由自在に物語をあやつる権利のある存在なのだ。
そこで、こんなことが可能になる。
フィクションの中の人間が、観客側に向かって話しかけてくる演出や、自分達がフィクション内にしか存在しない認識がなければ成立しないような演出をするのだ。急に舞台を暗転させ、あからさまな演出を為した『古畑任三郎』、『このままじゃあ、面白くないですよね?』とカメラ目線で話す『ファニー・ゲーム』、作者と会話をする『銀魂』。……絵が浮かぶようだよ。
これらはなべてメタ・フィクションと呼ばれる技法だ。フィクションであることを強調することで、観客には興奮を与えることが、興味を与えることができる、画期的な技法だ。しかし使い方を一歩間違えれば、観客は興ざめする危ない綱渡りさ。
お前はきっと受け入れることができないのかもしれない。しかし、これが真実である以上は、受容するしかない。どんな状況にあっても真実を自分に取り込む姿勢が、魂の健康を保つ秘訣だ。しかし良薬は口に苦し、お前もいつかは俺のように煩悶に直面する。
俺達はフィクションの中にいる、現実には存在していない、架空の存在……『登場人物』なのだ。至って単純さ。
思い出すんだ……俺達が冒頭にて行った演出を。
対談。あれは非常によくある形式のものだ。読んでいてとてもではないが目をそむけたくなるほど痛々しい気持ちになる種類のものではあるが。あれはステレオタイプのメタ・フィクションなのではないのか?
よく考えろ。作者、だなんて、今述べたとんでもない、大それた、そして陰謀めいた理論の上にしか―俺達が現実にはいない、というあの理論だよ―可能ではないぞ。俺も野郎に記憶を消されたのか、すっかり忘れてしまうところだったが、すんでのところでとどまったんだ。お前の立ち振る舞いを見る限りはお前は完全に忘却してしまったらしいね。だが、俺達は作者と確かに会話を交わしたんだ。
最も単純な言い方を選ぶなら、いわば、柴田隼人はこの物語における神そのものなんだ。俺達はそいつを、こともあろうに殺してしまった。殺すべきではなかったんだ。彼の緻密に計算されたお膳立てがあったからこそ、俺やお前には明確なキャラ設定があり、読者にとってブレのない掴みが望めたのに、彼がいなくなってからというものそれは否定され、俺は請負殺人を生業としながらその職業が抱えるそもその問題―法律的、倫理的な犯罪という観念から生じるものだが―に悩み始めたんだ。もう、俺には人を殺すだけの気概なんぞ一ミリも残っちゃいない。
そうだ、お前がさっきフィクションの世界の人間が、急にノンフィクションの世界に迷い込んだ、と言っただろう。あれが完全にではないが正解に近い。俺達は結局フィクションの世界から脱出することはできていないが、筋書きを失い、性格も首尾一貫したものではなくなってしまった。
俺達にとってこの真理は、人生における選択の全てに、自分を超越する存在による力が働いていたことを明晰に示すものだ。俺は煩悶し、一日中何の活力も見いだせずに過ごした。その結果が、あの殺人だ。神を殺すことで俺は自分だけの選択を得ようと試みた。すると……どうだ。俺は自分がかつて抱かなかった罪悪感を抱きはじめ、竹が風に揺れて葉を鳴らすような安らかな心地の苦痛を得たんだ。それは美的な筈なのに、かつての自分の醜悪を脳裏に焼き付ける忌々しい感情だった。しかし、俺は生まれ変わろうとしている。もうこんな仕事はこりごりだ。これが真に俺の望むことならば、希望に身を任せて足を洗おうじゃないか」
廃業の提案、そして彼への偽善として言わずまいとしたことを洗いざらい話した。話しながら半ばやけくそになっても、結論と道筋を言葉にちりばめることを忘れなかった。それを聞いた彼が、あまりの衝撃でものを言わぬようになるのでは、と心配もしていた。反駁もあろうし、悲嘆もあろう。しかし香山の期待は薄氷を破るように裏切られたのだ。
「やれやれ、お前は薬中だよ」明は呆れながら、二度口にした。「薬中だ」
香山はしっかりと論拠を併せて話したはずなのに、明は再び心を閉ざしてしまったらしい。そう決めつけた香山は喧嘩腰になりはじめた。
「臆病な中傷でこの話を済ませるんじゃない。それなら淫蕩を為す男の方がずっと大義を感じるね」
「いいや、薬中だよ。試しに自分の腕を見てみるといい。きっと針の痕がびっしりだ」
彼は、この期に及んでおどけるようにべっと舌を出して、嘔吐するふりをしてみせた。もはや香山がはじめた慎重な相談は、売り言葉に買い言葉の泥仕合となっていた。だが、あくまでも香山は、冷静に、彼に言い聞かせて理解させねばならない、と義務じみたものを感じた。そして沈着さを取り戻す意識を得たくせに、その意識を破り捨てた。すると癇癪玉が破裂し、あからさまに、大仰にクラッチを踏みつけてから言った。
「では見てみるんだね。俺の腕を見て、健康な肌を視認して、幻想を消滅させるといい。それからお前は、謝罪しながら俺の話を聞くんだ」
そのとき、挑発を受けて矢庭に眉間にしわを寄せた明が、自分の首に手を伸ばすのが見えた香山は、殴られるのかと思って目を閉じた。殴られるなら、先ほどお宮が殴ったのではない左頬にしてほしいと願った。しかし、香山が見たのは、自分を殴る明ではなく、首を絞める明であった。気管が絞まる感覚を得て、あの六本松駅での惨事を思い出した。すると、彼は今まさに再び死の危険にさらされていると感じた。両手で彼の手を離そうとするが、全く彼の手は離れなかった。自分がこれほどまでに真剣に事柄を伝えようとしているのに、沸点に達して衝動で人を殺めるとは、やはり彼に信頼をおくべきではなかったのだ、と後悔した。