自動車泥棒(後編)
美というのは気まぐれに不都合にその姿を現すのだ。青山の目に映る手島は、細く絡み合う紫煙を纏って、瞼を狭めてそれを拒んでいた。そよ風に吹かれた前髪や睫毛の一縷一縷が例のコンビニからの気持ち悪い明かりを受け、白く、鋭利に煌めいた。咥えられては赤く燃える煙草の先端・開閉の繰り返される唇・啜る鼻・微動だにしない額・……青山にはそれら全てが、哀しさを誘うような表情を為しているように思えた。ただこうも思った、こんなに美しい世界が手島の顔に建設されている、と。こんなときに限って、テレパシーなどなくてよかった!
<俺は哀しいけれど、お前を美しいと思う>とは、何の慰めにもならないし、それは青山が女を見て美しいと思う、あの視線から起こる性的な感情とはまた別のものだった。
手島の顔は静かでかつ能動的で、街の光を受け入れようと必死だった。
「青山、お前には夢とかあったか」
と手島が聞いた。
「そうさな、あったかもしれない」
「じゃあ、あったんだろうね。それはそういうニュアンスの答えだ」
「そうか」
「俺は……無かった、からきし無かった。……そのくせ遮二無二何か小さな幸せを求めて、得て、失って、忘れて、また求めて、……のサイクルだったんだ。偉そうにしていたが、ずっと誰かの支え無しに生きていなかった。お前は違う、未来永劫一人でやっていける。失うもののないことが強さだと思い込んでいたけれど、それはとんだ勘違いだったらしい」
青山は手島の声が消え入りそうに空気を振るわせる様を目の当たりにしていた。その声が夜闇で見えた気がしてならなかったのである。
手島の言葉は常に正直な響きをもって青山に届いていた。それはこのときですら例外でない。だから、世界にそんな純粋な人間はいないと言い張ろうとしたがやはり、ついぞ叶わなかった。
恐怖心を存分に掻き立てるこの時間の海を実際に見たことのある人間は少ない。青山は暇を持て余し、車を走らせて海辺へ向かったことがあった。
彼の眼前にあったのは、ただただ巻き起こる嚠喨たる波風だった。波はどこか近くで常にしぶきを上げながら彼の立つ浜に切迫していた。風はまるで巨人の手のように彼の体を叩いた。昼に訪れたときに見えたここの空が見せた紺碧たるや、片鱗の翳りもなく陽光を降らせ、突出して顔を覗かす岩のざらついた肌を照らし、人々に快活な気色を起こさせたものだ。
照明を欠いたこの空間で、この記憶はその岩の危ない面ばかりを思い浮かべさせせた。自分がもしあの岩に打ちつけられでもすれば、忽ち血を噴き出し、海の中で血は所在なく浮遊しながら希薄になり、海水と血液など全く弁別ができなくなるのだろう。そうして溺れながら腓返りにでもなれば、足の自由は全く失われ、危険の深淵へと深入りすることになるのだろう。そして、やがて人は死んでしまっているのだ。こんな苦痛にまみれた死には、享受などあり得なかった。
目隠しをされた人間が、いかに上手に妄想するかを彼は思い知ったのだった。
永遠に続きそうな夜だった。手島はそれから、再び何も言及させない雰囲気の中に佇立していた。煙草を吸い終わると、もう行こうか、と青山が宣言した。
必然に地球が回れば夜が来て、朝が来る。即ち現実に永遠などありはしない。永遠は精神の中にある仮構でなら可能だった。
朝日だけが夜の終わりを告げた。手島と青山の車とが無くなっていた。