コラム②強制する自立
若者支援現場で対応する二大「問題」状況といえば「不登校」と「未就労」。
(弊社の二大巨頭といえば、くつべらマンとまっくらムウ、ですね)
しばしば議論になり、あるいは担当が葛藤するのが「どのくらい強制するのか」です。学校あるいは職場に戻ることを。
(ワカンネエヨ、とお酒に逃げることも)
「強制する」というのは、物理的な「無理やり手をひっぱって」などではなく、説得やサポートの「程度」についてです。
(↑極端な例:引出し屋。身体症状を引き起こされた被害者の方も)
不登校や欠勤の状況になっているのには、当然理由があります。「いじめられている」「つらい」など。
当事者の事情を理解したのち、私たち支援者はどう行動するのか。
(↑周りの大人に担当がよく言われるセリフ。うるさい)
「明確にした原因を解決。のち再登校・再就労」
これが一番なのでしょうが、そう順序よく進んだことはありません。
特に「集団へ所属すること自体」に利用者が課題を感じているケース(クラス・職場に馴染めない、など)は、解決に時間がかかる印象です。
かといって現実の時間はすすんでいきます。登校であれば、受験などの進路選択が近づいてきて、内申点をためる必要があったりします。就労であれば、自立が迫っていたり、お金を貯めなければなりません。すでに一人暮らしをしていれば、生活の土台が揺らぐ事態です。
個人と社会のペースのギャップには、いつも悪戦苦闘させられます。
「登校刺激」などの表現が使われるのですが、例えば「何はともあれ」登校しなさい、働きなさい、と一貫して伝えていくのか。
「いじめられている」「辛い」などの理由や事情を理解し、感情に寄り添い、さらに現在の状況(不登校なり欠勤なり、所属から退避している状況)が維持できるようサポートしていくのか。
施設のルールでいえば「学校いかなければ一日部屋で大人しく過ごす」を徹底するのか。あるいは学校代わりの日中活動をデザインするのか(人手が...)。
実際は「程度・バランス」なのでしょうが、いつも「わたしがしていいのか?」なギリギリの判断を迫られます。将来に影響しますから。
私は、どっちがいいという「正解」を持っていません。
退学した元児童に「学校いっておけばよかった」と言われたこともありますorz。
しかし経験的に「強制的な自立は、社会参画として”質”が悪い」と思っています。
(今回の四コマ)
「学校へ行くべき」
「働くべき」
そういった強い意志表示を示す支援者にあったことは数多くあります。迷いを見せることで効果が薄くなると思っているのか、徹底して示していました。言葉で。表情で。ルールで。
それがきっかけで、登校あるいは就労が継続して本人が「良かった」と言えばOKだと思います。
ただ、それが悪い結果の場合、将来にまたがる「失敗」になるリスクがあるのだと思います。
当事者の「拒絶」から始まり、支援者との「押し問答」。どっちも引かず、ヒートアップ。最終的には支援者の「拒絶」あるいは「暴力」です。(※もちろん、もっとマシな展開もあります。)
初対面で「善意」や「愛情」をうたい、思い通りにならなかった最後は「おまえが甘い」と手のひらを返す「自称支援者」を沢山見てきました(この段落では、筆者が感情的になっているため、乱暴な言葉遣いになっていますm-m)。ネットで調べれば出てくる、支援有名人もいます。控え目に言って、大嫌いです。
今回の話は「学校にいかせる・いかせないべきか」「職場にいかせる・いかせないべきか」ではなく、支援者と当事者の関係性の話なのだと思います。
信頼関係のある当事者と支援者が、そこだけの「正解」を考え試行錯誤していく。それしかないような気がします。
タイトルの「強制的な自立」ですが、「強いられた自立」という本をお世話になった先生(先日ご逝去されました)が書かれています。「僕たちの家をつくってよ」と若者たちに言われ、六畳一間からスタート。苦労の末に自立援助ホームをつくった方です。
一人一人の自立を「支援」していく。考えていきたいと思います。続く。