序章|矢野耕平『ぼくのかんがえた「さいきょう」の中学受験――最強と最凶の分かれ道』
序章 中学受験の「理想」を掲げよう
「ブーム化」する中学受験
わたしは過熱化する中学受験の世界を冷ましたいと考えて、筆を執りました。
昨今は首都圏(一都三県)を中心に中学受験が活況を呈しています。「少子化」が叫ばれる日本ではありますが、首都圏、とりわけ「教育熱の高い」とされる都心部の児童数は増加傾向にあるという歪な構造になっているのもその理由のひとつでしょう。
一〇年ほど前は、首都圏の中学受験生総数は、同エリアの私立中学募集定員をはるかに下回っていて、定員割れ(入学者数が募集定員に満たない状況)を引き起こす学校が何校もありました。つまり、「高望み」をしなければ、どのような学力レベルの中学受験生であっても、どこかの学校には合格、進学できたということです。
しかし、二〇一五年度に「底をついた」中学受験者総数はその後年々伸び続けていて、二〇二〇年度には私立中学募集定員を上回る中学受験生総数に転じ、いまや中学受験生たちは私立中学校サイドから文字通り「選抜される」ようになっています。実際に、首都圏の中学受験生たちの中で第一志望校に合格できるのは、男子「約四人に一人」、女子「約三人に一人」とされています。空前の「中学受験ブーム」が到来しているのですね。
さて、何かが「ブーム」になれば、巷ではそれを話題にするようになります。
中学受験の世界もその例外ではありません。
わたしが塾講師として中学受験の科目指導を始めて今年で三〇年目を迎えますが、こんなに世間から中学受験が注目される日がくるとは思いもしませんでした。
わたしのもとに教育雑誌や新聞から中学受験についての取材依頼が、オンラインメディアからは寄稿の依頼が、この数年多く寄せられるようになりました。簡単に言えば、中学受験がメディアにとって「バズるコンテンツ」になったのでしょう。
以前は中学受験に関する書籍といえば、「保護者対象のハウ・ツー本」や「参考書・問題集」ばかりでしたが、近年はそれだけではなく、中学受験を題材にしたマンガや小説が数多く刊行され、中にはテレビドラマ化された作品だってあります。
個人的には「明日の米櫃」を考えれば、この中学受験ブームは喜ばしいことかもしれません。事実、わたしの経営する中学受験専門塾スタジオキャンパス(自由が丘校・三田校)は年々生徒数が増加、一八年目を迎える今年度は過去最大の生徒数を抱えています。
しかし、わたしは中学受験の過熱化に伴う諸々の問題に懸念を抱くようになったのです。この点について後述していきましょう。
中学受験は一家言持ちやすい世界
わたしは中学受験専門塾を経営し、中学受験生たちの国語や社会の科目指導をおこなう傍ら、中学受験や中高一貫校、国語教育などをテーマにした書籍やオンライン記事を執筆しています。
二〇二一年一〇月一五日、わたしは「アエラドット」(朝日新聞出版)という媒体で、「親子『二人三脚』の中学受験にひそむ落とし穴 中学入学後に伸びる子、苦しむ子の違いとは」というタイトルの記事を公開しました。
親の力を頼らず、わたしの塾の自習室をずっと活用して受験勉強に専心していた男の子の話です。彼は俗にいうトップレベルの学校に合格しただけでなく、中学入学後の成績伸長が目覚ましかったのです。さまざまな中高教員が証言するように、「親子二人三脚」で受験勉強を乗り切ってきたタイプの子よりも、中学受験勉強の際に「自学自習」の姿勢を身に付けた子のほうが学力をさらに高めていく可能性が高いのではないか……。
簡約すると、そういう内容の記事です。
すると、アエラドットが当時設けていた掲示板(現在は閉鎖)にこのようなコメントが書き込まれたのです。
「『見ているだけでこんなに良い子に育った』って素晴らしいですね~。世の中そんなできた人間ばかりじゃないんです。子どもの丸付けまでする親が悪いんですか? 気持ちいい言葉を並べて偉そうに。子育てビジネスで詐欺まがいの本を出して金儲けしている人の言葉は重いですね(笑)。屋根の数だけ人間模様があり、あなたの薄い経験則でものを語れるほど子育ては甘くないんですよ!」
内容から察するに、わが子の学習管理に大変な思いをされた保護者でしょうか。
「子育てビジネスで詐欺まがいの本を出して金儲けしている」はわたしに対する誹謗中傷に相当するのでしょうが、それ以外の文面を「柔らかく」要約すると次のようになります。
「あなたは親が離れて見守るだけで、学力をぐんぐんと伸ばす中学受験生の話を紹介していますが、そんなにできた子どもたちばかりではありません。ご家庭にはそれぞれの事情があり、みんな必死に子どもたちと向き合っているのです。あなたの目にした限られた成功事例を一般化してほしくないのです」
このように丁寧に書き直してみると、このコメントを寄せた方にも一理あるように感じられます。しかし、そこには所詮「一理」しかないのです。
わたしは平生X(旧Twitter)のアカウント(@campus_yano)で中学受験に関するさまざまな呟きをしています(中学受験とは無縁の下らない呟きも多いですが)。このⅩには中学受験生の保護者がわが子の塾の様子や成績、志望校などを発信するいわゆる「中学受験アカウント」に溢れています。たとえば、Ⅹの「スペース」(音声ライブ配信機能)を使って、中学受験情報などを同業者たちと配信した際には、多いときには一〇〇〇を超える「中学受験アカウント」が集まり、それを聴取しているくらいです。中学受験の盛り上がりというのはこういうところからも感じられます。
話が少し逸れてしまいましたが、わたしのXの発信でもこれらの「中学受験アカウント」から反対意見、批判が寄せられることがたまにあります。
「あなたの話はわたしの娘には当てはまらないので、噓を吐かないでほしい」
「あなたが語っていることは中学受験業者特有のポジショントークだから、子育てをしている親には響かない」
そういえば、わたしの執筆した記事がヤフーニュースに転載されるたびに、その記事内容に対してさまざまなコメントが書き込まれます(いわゆる「ヤフコメ」というもの)。そこにはかなり辛辣、乱暴なことばが多々見られます。
わたしは中学受験の世界に携わって今年で三〇年目を迎えます。大手塾にも過去一三年間所属していたこともあり、いままで指導してきた子どもたち、やり取りをしてきたご家庭は相当な数に上ります。また、わたしはさまざまな書籍、記事を執筆する上で、教育関係者や中高一貫校への取材を数多くこなしていて、中学受験の裏表について同業者の中でも把握している部類に入るでしょう。
そのような実体験を積んできたにもかかわらず、「あなたの言うことは間違っている」といったことばを中学受験生の保護者たちから頻繁に浴びせられるのです。もちろん、ひとつはわたしの至らなさに起因するのでしょうが、どうもそれだけではないようです。わたしが一目置いている同業者の方々も同じような目に遭っているのです。
これは一体どういうことでしょうか。
中学受験生の保護者の大半はかつて自身が中学受験や高校受験の「受験生」としての経験を有していて、科目学習に当時専心してきたはずです。また、どのご家庭も不安を抱きつつ、独自のプライドや信念のもと子育てしているという自負があるのでしょう。
言い換えれば、中学受験は、大人の誰しもが「一家言」を持ちやすい世界なのです。
そして、昨今の中学受験の風潮として、「保護者がわが子の勉強面にタッチする」事例を見聞きするようになりました。つまり、保護者が「塾講師」、家庭が「中学受験塾」の役割を果たすケースが見られるのです。中学受験について違和感を覚える発言をSNSや記事で目にしたときに、保護者がそれらに異論・反論をぶつけたくなる土壌が出来上がっているのです。
「第一志望校に合格するぞ」と叫べなくなった理由
冒頭で日本は「少子化」であるにもかかわらず、首都圏の中学受験者数が増えているのは「歪な構造」であると申し上げました。
わたしがいま言及した「家庭の『進学塾化』」「親の『塾講師化』」というのもよく考えれば「歪な構造」のひとつでしょう。なぜなら、そういうご家庭、保護者のもとで中学受験勉強に打ち込んでいる子どもたちの大半は、普段から特定の進学塾に通い、そこで各科目の指導を塾講師から受けているからです。
わたしは中学受験生の保護者を対象にした講演会でこんな話をよくします。
「首都圏の中学入試は受験者総数が増加していることを踏まえると、年々激化しているといえます。第一志望校に合格できる子より、そうではない結果を突き付けられる子のほうが多い世界です。そうとはいえ、保護者の皆さんがわが子の成績を客観視して、中学入試で受験する学校のレベルを『挑戦校』『実力相応校』『安全校』と三つに区分し、それらを戦略的に、バランスよく配して『受験パターン』を構築できれば、どこからも合格切符を貰えない、つまり『全敗』という憂き目に遭うことは滅多にありません。中学受験は子どもたちに膨大な範囲の学習を課します。そのため、子どもたちは遊んだり、趣味に没頭したり、習い事に熱中したり……そんなかけがえのない時間を犠牲にしています。ですから、中学受験である特定のレベル以下の学校だったら、公立中学校に進学してまた高校入試でリベンジすればよいではないか。そういうお考えの保護者がいるならば、ここで立ち止まってほしいのです。ここまで受験勉強に一生懸命取り組んだ子どもたちを再び受験勉強に間髪を入れず専心させるつもりですか? 第二志望校だって第三志望校だってよいのではないでしょうか。中学受験勉強をわが子が貫徹するのなら、中高一貫校に進学させて、子どもたちに高校入試という『障壁』を取り除いてやってください」
わたしは塾講師です。本来の塾講師の役割は「子どもたち一人ひとりの第一志望校合格に向けて伴走する」ことにあります。皆さんも「進学塾」ということばを聞いて、「絶対、第一志望校に合格するぞ!」とハチマキを巻いた熱血講師が絶叫するシーンを連想する人がいるのではないでしょうか。かくいうわたしも大手塾に属していた昔はこの手のフレーズを受験生たちの眼前で叫んでいたものです。
しかしながら、近年は少し「トーンダウン」した話を保護者に向けてするように変わったのです。聞けば、ほかの中学受験塾でも同じような話をする傾向にあるようです。「家庭の『進学塾化』」「親の『塾講師化』」に警鐘を鳴らしているのです――。
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