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解説:水野和夫|島田裕巳『宗教にはなぜ金が集まるのか』

解説――21世紀の経済学と「共通善」 

水野和夫

 島田裕巳さんは相変わらず、切り口と洞察力が滅法鋭い。

 母の統一教会への巨額に上る寄付が家庭を崩壊させ、それを恨んだ山上徹也容疑者が安倍晋三元首相を射殺する事件があったばかりですが、本書はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教といった数千年の歴史を持つ宗教がいかにお金とかかわってきたかに関して根源的な問題を考察しています。それは同時に、資本主義をどう捉えるかという現在の最重要課題を考える際に不可欠な視点を提供していることから、「宗教と金」という古今東西を問わず、もっともセンシティヴなテーマを扱った、他に例を見ない内容となっています。

 本書は冒頭、「宗教と金」にまつわる闇の世界を紹介し、読者は一気に引き込まれます。「バチカン銀行」と関係の深いイタリア最大のアンブロシアーノ銀行の元頭取ロベルト・カルビが逃亡先のロンドン・テムズ川の橋で首吊り自殺(のちに他殺と判断)している事件から始まります。20世紀以降、多国籍企業やグローバル企業が登場しましたが、それ以前では「教皇庁は唯一の世界組織」です(序章)。なぜなら「キリスト教の三大教派のうち、プロテスタントと正教会(東方正教会)は国や民族が基盤になっているため、世界組織になるのは困難」だからです(同)。

 マルクスがエンゲルス宛の手紙で述べたように「市民社会の本来の任務は、世界市場を作り出すこと」なのですから、ローマ・カトリック教会は宗教のなかでもっとも資本主義と親和性が高いのです。資本主義にとってもっとも重要な概念は「資本」であって、資本の定義は200余りあるとのことですが、もっともシンプルな定義は「利息(利潤の概念も含む)のつくお金」です。本書によれば、「ヴェーバーが利子について論考を展開しなかった」ことを理由に、「キリスト教における利子の禁止をめぐる歴史を考えると、彼(ヴェーバー)の論考は不十分だった」と結論づけています(第7章)。まさに正鵠を得た指摘だと思います。

 本書の優れた点は、世界の四大宗教を比較しながら、なぜ禁欲的なキリスト教が資本主義を生み、そうではなく「商人の宗教」(第4章)であるイスラム教や金融業に秀でているユダヤ人のユダヤ教から資本主義が生まれなかったのかなど、本質的な問題について、きわめて説得的な論旨を展開していることです。すなわち、イスラム教は「必ずしも戒律が厳しくない」ため、キリスト教と同様に『コーラン』で「利子を禁じています」が、事実上利子を取った商行為が適法か違法かについて、イスラム「法学者の目を通して判断」しています(同)。よく言えば現実的な対応ですが、利子についての本質的な議論を避けてきたと言えます。だからイスラム世界では「抽象的な経済学は生まれにくい」と、島田さんは言います(同)。

 仏教はキリスト教と同様、「聖職者に限り、戒律すなわち欲望の禁制があります」(第1章)。しかし、「仏教はキリスト教などとは異なり、利子の禁止を説くことはありません」(第2章)。また、聖職者が経済活動を行うか否かで、違いがあります。仏教では「僧侶は経済活動を行わず、経典を学ぶことや修行に専念する。在野の信者はこれを布施で支える」(同)。いっぽう、キリスト教ではテンプル騎士団が銀行業を営んだり、修道院で自律的生活をするためにワインの製造、販売をしたりして商業活動をしました。また、喜捨の対象が仏教とキリスト教では真逆です。「キリスト教やイスラム教では喜捨の対象が貧しい人であるのに対して、僧侶が対象になっているのが仏教の特徴」でした(同)。こうした姿勢が、経済学を生んだキリスト教と、欧米から経済学を輸入した日本との違いと言えます。

 キリスト教は中世盛期にヨーロッパで貨幣経済化と都市化が起き、神が所有する時間から生まれる利子率を人間が決めていいかどうか、スコラ哲学者の間で意見が戦わされてきました。そのなかで決定的な役割を果たしたのが、神学者・哲学者のピエール・ド・ジャン・オリヴィです。彼は「貨幣は石ではなくて種子だ」と主張し、これまでのアリストテレス的な考えを一変させました(第1章)。そうすることで、「商行為や利子が罪深いものではないと証明することで、彼らは善きキリスト教徒のままでいられます。このことが、神学者であるオリヴィの理論構築の目的だった」(同)。言わば、オリヴィはキリスト教徒を救済したことになるのです。

 経済学は中世には存在しないと言われてきたのですが、オリヴィは自らの著作が20世紀に再発見されたことによって、従来の常識を覆しました。大黒俊二さんは、著書『嘘と貪欲』(2006年刊行)のなかで、「オリーヴィは一三世紀の『資本論』を著した」と、彼の業績を高く評価しています。人間社会の経済活動において、コペルニクス革命に匹敵するパラダイム転換を成し遂げたのです。

 学問は原理・原則が時代にそぐわなくなってきた時にこそ、その存在意義を問われるのです。キリスト教会のスコラ学者たちは、聖書に書かれている徴利禁止の原則をいかに「商業革命」(10~14世紀)が起きつつある現実と整合を取るか、すなわち「どのようにして利子を合法化するか」に関して真剣に取り組みました(第1章)。オリヴィは「商業革命」によって禁欲が貯蓄を促し、それが投資の元手となって人々の生活水準の向上につながることを発見したのです。すなわち、「禁欲の問題と、宗教と金の問題は深くかかわって」いるのは(同)、生活水準の向上(禁欲が投資を生む)が貧者の救済(宗教)につながるからです。

 オリヴィはもともと「清貧を追求したフランチェスコ会のなかでも急進的なスピリチュアル派に属し(中略)、異端視されるほど清貧を追求していました」(第1章)。その後、「故郷である南フランス・セリオンに退いた時に、交易商人たちから取引にかかわる相談を受け、営利活動を正当化する理論を確立していった」のでした(同)。

 しかも、オリヴィは利子容認にあたって、公共性を担保しています。「共通善に適っていれば利子を取ってもよい」と言っているということは、逆に共通善に適っていない場合には利子を徴収するのは神に背くことになります(第1章)。13世紀以来、自己の利益を追求する商行為はその背後に「社会的に好ましいこと」という前提があるのです(同)。それは、アダム・スミスにも受け継がれています。

 このように、もっとも大事な概念(キリスト教にとってのそれは「利子」)を突き詰めていって、はじめて前途が開けるのです。イスラム世界は中世前期のヨーロッパよりずっと繁栄していたにもかかわらず、中世盛期以降の世界史においてイニシアティブを取れなかったのは、イスラム教は禁止されている利子について場当たり的な対応で凌いできたことに原因があります。本書を読むと、現実と戦うのが学問であると理解できます。島田さんのこれまでの学問に対する姿勢そのものです。

「経済学は神学より発している」(第1章)、「利子に関して繰り返し論争されてきたヨーロッパのキリスト教世界だからこそ、経済学が誕生した」(第7章)との指摘には重みがあり、経済学者は真摯に向き合う必要があります。21世紀の現在、ビリオネアが隆盛をきわめるいっぽうで、絶望死や貧困問題などが存在します。これら現実の課題に対処できない学問は世の中から支持を失い、追放されてしまうのではないか。経済学者の端くれの一人である私は、本書を読んで強く危惧しました。 

 経済成長がすべての怪我を治すと信じる21世紀の主流派経済学者は、成長しないのは、あるいは物価が上がらないのは人々の努力が足りない、または規制改革が不十分だからだとして、理論は間違っていないと主張しています。しかし、13世紀のスコラ哲学者の現実を直視し、「共通善」を重視する態度を見習う必要があります。歴史を学び、そのうえで社会の中心概念の根本原理を常に問い直していくことが、いかに大事であるかを本書は教えてくれます。                          

 (法政大学教授)