見出し画像

4刷決定記念!『ベル・ジャー』第一章全文公開(後編)

7月23日に発売された『ベル・ジャー』(シルヴィア・プラス著、小澤身和子訳)の4刷がこの度決定しました。海外文学としては異例の盛り上がりを見せる本書の第一章の全文の後編を公開します。
ぜひご一読ください

 わたしたちは、劇場へ向かう人たちの車の渋滞に身動きが取れなくなっていた。乗っていたタクシーは一台前のベッツィーたちが乗っているタクシーと、一台後ろのほかの女の子四人が乗ったタクシーに挟まれたまま、少しも動けずにいた。

 ドリーンは美しかった。ストラップレスの白いレースのドレスをぴったりしたコルセットの上にジッパーを締め上げて着ていて、そのせいで体の真ん中がくびれて、その上も下の部分も見事なくらい膨らみ、薄くパウダーがはたかれた肌はブロンズ色に輝いていた。そして、まるで香水店の中にいるのかと思うくらいきつい香水をつけていた。

 わたしはシルクの細身のワンピースを着ていた。四十ドルで買ったものだ。ニューヨークに行ける幸運を引き寄せた一人が自分だとわかったときに、奨学金の一部を使って派手に買い物をして手に入れた。すごく変わったスタイルのワンピースで、下にはどんなブラも付けられなかったけれど、わたしは少年のように細くて、ほとんど揺れるものがない体をしていたから、大して問題にならなかったし、蒸し暑い夏の夜は、むしろ裸に近いほうが良かった。
 
 でも、都会で暮らしているせいで、日焼けが褪せてきていた。肌が黄色くて中国人みたいだった。普段なら、着ているワンピースや変な肌の色が気になってしかたなかっただろうけれど、ドリーンと一緒にいるとそんなことは忘れてしまった。ものすごく賢くて、シニカルな人間になった気がした。

 青いダンガリーシャツと黒いチノパンに、型押しされた革のウエスタンブーツを履いた男が、バーのストライプの日除けの下で、わたしたちのタクシーを目で追っていた。彼がこちらへゆっくりと近づいてきても、なんの期待もしなかった。彼の目的は間違いなくドリーンだからだ。
 男は渋滞で停まっている車と車のあいだを縫うようにやってくると、愛嬌をふりまきながら、わたしたちのタクシーの開いた窓に寄りかかってきた。

「ねえ、ちょっと訊きたいんだけど、こんな素敵な夜に、きみらみたいな素敵な女の子たちが二人きりでタクシーに乗って、なにしてるの?」
 そうして彼は真っ白な歯を見せて、歯磨き粉のコマーシャルみたいに笑みを顔いっぱいに広げた。
「パーティーに向かうところなの」わたしは、うっかり口走ってしまった。    
ドリーンが急に黙りこくって、白いレースのバッグカバーを興味なさそうにいじりはじめたからだ。
「なんだか、つまらなそうだな」と男は言った。「それより、あそこのバーで一緒に飲まない? 友達もいるんだ」 
 そしてバーの日除けの下で前かがみで立っている、カジュアルな服装の男たちのほうをあごで指した。男たちはさっきから彼のことを目で追っていて、彼が視線を返すと急に笑いはじめた。

 その笑い声を聞いて、警戒するべきだった。低俗で知ったかぶりの男がするような笑い声だったのに、渋滞にはまっていた車がまた動きだしそうで、わたしはこのままタクシーの中にいたら数秒後には、雑誌社の人たちが念入りに計画してくれたのとは違うニューヨークを見られるチャンスを逃したことを、後悔するはずだと思ってしまった。

「どうする、ドリーン?」わたしは尋ねた。
「どうする、ドリーン?」男はそう繰り返すと、また大きな笑顔を見せて言った。今でも、笑っていないときの彼の顔を思い出せない。
 きっと、ずっと笑っていたのだろう。彼にとっては、あんなふうに笑っているのが自然だったに違いない。

「別に、いいけど」とドリーンはわたしに言った。わたしはドアを開け、ちょうどまた少しずつ動きだしたタクシーから二人で一緒に降りて、バーに向かって歩きはじめた。

 キーッというひどいブレーキ音に続いて、ドン、ドンと鈍い音がした。
「おい!」わたしたちが乗っていたタクシーの運転手が、怒りで紫色になった顔を窓から出して怒鳴っていた。「なに考えてんだよ!?」
 その運転手が急に車を止めたせいで、後ろのタクシーが思い切りぶつかってきたのだ。中に乗っていた四人の女の子たちは、手足をうねらせながら、なんとか床から這い上がろうとしていた。

 男は笑うと、わたしたちを歩道に残したまま、クラクションが鳴り響き怒鳴り声が飛び交うなかへ戻っていって運転手に金を握らせた。そうして女の子たちを乗せたタクシーが一台ずつ列になって動きはじめた。
 まるでブライズメイドしかいない披露宴みたいだった。

「来いよ、フランキー」男が仲間の一人に声をかけると、背の低い、しみったれた男がやってきて、わたしたちと一緒にバーに入った。
 その人は、わたしにとって我慢ならないタイプの男だった。靴を脱いでストッキングだけになっても一七八センチも身長があるわたしは、背の低い男とならぶときはいつも少し猫背になって腰をかがめ、おしりの片側を上げて反対側を下げて、少しでも背を低く見せようとする。でもそのたびに、サーカスの余興をしているみたいに、ぶざまで暗い気分になるのだ。

 一瞬、身長に合わせて二組に分かれられたらいいのにと、むちゃくちゃなことを願った。そうすれば、最初に話しかけてきた男と一緒にいられると思ったのだ。彼は一八〇センチを軽く超えていた。
 でもすぐにドリーンと先に行ってしまい、わたしのことは見向きもしなかった。フランキーが肘のあたりにちょっかいを出してきたけれど、わたしは気づかないふりをして、ドリーンのそばに座った。

 バーの中はとても暗くて、ドリーン以外はほとんどなにも見えなかった。プラチナブロンドと白いワンピースのせいか、彼女は全身真っ白で銀色に光っていた。バーにかけられたネオンサインが反射していたのだろう。これまで一度も見たことのない人の写真のネガのような彼女の影に、自分が溶けていくように思えた。

「ねえ、なに飲む?」大きな笑顔を浮かべて、男が言った。
「私はオールドファッションにしようかな」とドリーンはわたしに言った。
お酒を注文するときはいつも困ってしまう。ジンとウィスキーの違いもわからなかったし、美味しいと思える飲み物を注文できたためしがなかった。
 
 バディ・ウィラードやほかの大学の男の子たちは、たいていハードリカーを買うお金がなかったし、お酒を飲むこと自体を軽蔑していた。
 お酒も飲まず、煙草も吸わない大学生の男の子がなんと多いことか。わたしはその全員を知っているんじゃないだろうか。バディ・ウィラードは、無理してわたしたちにデュボネを一瓶おごってみせたことがあったけれど、あれだって、ただの医学生でも良いものはわかるってことを証明するためだった。

「ウォッカにする」とわたしは言った。
男はわたしをじっと見つめると、「なんで割る?」と訊いてきた。
「そのままで」とわたしは答えた。「いつもそのままで飲むから」

 氷やジンやなにかで割って飲むと言ったら、馬鹿にされると思った。以前見たウォッカの広告には、青い光に包まれた雪の吹き溜まりの真ん中に、グラスにたっぷりと注がれたウォッカが置かれていた。ウォッカは水みたいに透き通っていたから、そのままでウォッカを飲んでも問題ないだろうと思った。頼んだお酒を飲んでみたら美味しかった、なんてことが起きればいいのに。
 ウェイターがやってくると、男は四人分の飲み物を注文した。いかにも都会らしいバーで牧場にいるみたいな服装ですっかりくつろぐ彼を見て、この人はもしかすると有名人なのかもしれないと思った。

 ドリーンはなにも言わずにコルクのコースターをいじっているだけで、しまいには煙草に火までつけはじめたけれど、男はちっとも気にしていないようだ。彼女のことを見つめ続けているその姿は、動物園で大きなコンゴウインコを見つめて、なにか言うのをじっと待っている人みたいだった。

 注文したものがやってくると、わたしのお酒は透き通っていて、前に見たウォッカの広告とそっくりだった。
「仕事はなにをしてるの?」ぼうぼうに生えたジャングルの草に取り囲まれているような沈黙を破るみたいに、わたしは男に尋ねた。
「ここ、ニューヨークでなにをしてるの? ってことだけど」
 男はゆっくりと、大変なことを強いられているかのように、ドリーンの肩から目を離した。
「DJなんだ」と彼は言った。
「きっときみも知ってるんじゃないかな。レニー・シェパードって名前でやってる」
「私、知ってる」とドリーンが急に口を開いた。
「それはなによりだ、ハニー」と男は言って、笑いだした。
「有名ってのも、役に立つもんだな。実は僕はめちゃくちゃ有名だからね」 
レニー・シェパードは、フランキーの顔をしげしげと見ていた。

「ねえ、二人はどこから来たの?」フランキーが急に座り直して言った。「きみの名前は?」
「この子はドリーン」レニーはドリーンのむき出しの腕に手を回して、軽くぎゅっとしながら言った。

 ドリーンが彼にされていることに気づいていながら、なにも言わなかったことには驚いた。ただじっと座ったまま、髪をブリーチしてブロンドにした黒人女が白いワンピースを着ているみたいな浅黒い肌をして、優雅にお酒をすすっていた。
「わたしはエリー・ヒギンボトム」と名乗ってから「シカゴから来たの」とわたしは付け加えた。そういうことにしておけば、安心に思えた。その夜に言ったりやったりすることを、ほんとうのわたしや本名、ボストン出身であることと結びつけたくなかった。

「そしたら、エリー。少し踊らない?」
 オレンジ色のスエードの厚底靴を履いて、安っぽいTシャツの上によれよれの青いジャケットを着たちんちくりんな男とダンスをするなんて、考えただけで笑えた。
 この世界で見下すものがあるかと訊かれれば、青い服の男と答えるだろう。黒でも灰色でも茶色だっていい。でも青い服は笑うしかない。

「そんな気分じゃないから」わたしはそう冷たく言い放つと、彼に背を向けて、ドリーンとレニーのほうに椅子を引き寄せた。
 二人はもう、何年もお互いのことを知っているような雰囲気になっていた。ドリーンはグラスの底に沈んでいるフルーツを、銀色の細長いスプーンですくい上げようとしていて、レニーはドリーンがスプーンを口に運ぶたびに甘えたような不満の声をあげ、犬のふりなのか、じゃれるような仕草でスプーンからフルーツを落とそうとしていた。ドリーンはくすくす笑いながら、フルーツをすくい続けた。

 わたしは、ウォッカこそわたしのお酒だと思いはじめていた。これまで飲んだどのお酒にも似ていなかったけれど、マジシャンが剣を飲み込んでいくみたいにまっすぐ胃の中に流れていって、力がみなぎり、神になったような気分だった。
「俺はもう行くよ」フランキーが立ち上がった。
 バーが暗くて彼の顔ははっきりと見えなかったけれど、そのとき初めて、彼の声が馬鹿みたいにかん高いことに気づいた。誰も彼のほうを見なかった。

「おい、レニー、おまえ、俺に借りがあるだろう。覚えてないのか? 借りの話だよ。わかってんのか?」
 フランキーが見ず知らずのわたしたちの前でレニーに借りを返せと言うのは変だと思った。でもフランキーが立ったまま、何度も同じことを繰り返すので、ついにレニーはポケットに手を突っ込んで、緑色のドル札を丸めたぶ厚い束を取り出すと、そこから一枚剝がしてフランキーに渡した。あれは十ドル札だったはずだ。
「いいから、とっとと消えろよ」
 一瞬、レニーはわたしにもそう言っているのかと思ったけれど、ドリーンが「エリーが行かないなら私も行かない」と言うのが聞こえた。エリーという偽名でドリーンがわたしを呼んだのには、やるなと思った。

「ああ、そうか。エリーも来るよ。そうだろ?」レニーはわたしにウィンクをした。
「いいよ、行く」とわたしは答えた。
 フランキーは意気消沈して夜の街に消えていったことだし、わたしはドリーンについて行こうと思った。見られるだけのものを見ておきたかった。

 わたしはきわどい状況にいる人のことを観察するのが好きだった。たとえば交通事故や街頭でのケンカ、実験用のガラス容器(ジャー)の中でアルコール漬けにされた赤ん坊が目に飛び込んできたら、立ち止まってじっと見入ってしまい、忘れられなくなった。
 
 この方法でなければ学べなかったことをたくさん学んだし、たとえそれでショックを受けたり、気分が悪くなったりしても絶対に表には出さず、その代わりに、まるではじめからわかっていたようなふりをした。

(前編はこちら

『ベル・ジャー』
著者:シルヴィア・プラス
訳者:小澤身和子
四六判・並製・388ページ ISBN:978-4-7949-7435-8
本体価格:2500円(+税)
https://www.shobunsha.co.jp/?p=8324

装画:安藤晶子
装丁:脇田あすか

ご購入はこちらから☟

https://amzn.asia/d/9tPs5lt (Amazon)
https://books.rakuten.co.jp/rb/17925781/?l-id=search-c-item-text-01(楽天ブックス)
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784794974358(版元ドットコム)

推薦コメント続々!

「新訳『ベル・ジャー』は凄い本だ。
生きるだけで必死なのに、なぜ人は物語を読むのか。
その答えが、結晶のきらめきと、息をのむ密度で書かれている。
〈地獄の季節(シーズン)〉は、こんなにもカラフルで輝いて滑稽で切なくて悲しくて強い。すべての人に贈りたい最高の一冊。」──川上未映子

「この個人的な小説は、個人が生きた時代を痛いほどの率直さと繊細さで抉り出した作品でもある。」──ブレイディみかこ

「刊行から60年、米Z世代の間で再び必読書に。未来への絶望が蔓延する社会に、切ない希望を与える一冊。」──竹田ダニエル

「何にでも成れるはずなのに
何にもなれやしない
その絶望の生々しさに呑まれそうになる。
それでも損なわれない繊細さと高潔さ
彼女と私たちは地続きの場所にいる。」──宇垣美里

著者:シルヴィア・プラス(Sylvia Plath)
1932-1963年。ボストン生まれ。詩人、作家。8歳から詩を、9歳から物語を書き始め、10代から作品が雑誌に掲載される。1955年にスミス・カレッジを卒業後、フルブライト奨学金でケンブリッジ大学へ留学。1960年に詩集『The Colossus』を出版。1963年、唯一の長編小説である『ベル・ジャー』を別名のもと出版。同年、自ら命を絶つ。1982年『The Collected Poems』でピュリツァー賞を受賞。本書『ベル・ジャー』は英米だけで430万部以上を売り上げた世界的ベストセラーであり、現在も多くの読者の心を掴んでいる。

訳者:小澤身和子
東京大学大学院人文社会系研究科修士号取得、博士課程満期修了。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン修士号取得。「クーリエ・ジャポン」の編集者を経て翻訳家に。訳書にリン・エンライト『これからのヴァギナの話をしよう』、ウォルター・テヴィス『クイーンズ・ギャンビット』、カルメン・マリア・マチャド『イン・ザ・ドリームハウス』、デボラ・レヴィ『ホットミルク』、ニナ・マグロクリン『覚醒せよ、セイレーン』、デルモア・シュワルツ『夢のなかで責任がはじまる』など。


※本書には今日では差別的とされる語句や表現が含まれますが、執筆された時代背景を考慮し、当時のまま訳出しています。