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対話6-A 欲望と信念と矛盾と「見ること」と非モテ(二村ヒトシ)

石田月美さま

なるほど。

たしかに「あなた」が主語のときも「わたし」が主語のときも、「べき」を使わないほうが人の心は苦しまないですね。

「べき」を使わないべき、などと書いてはアホですから(僕はつい書きそうになります)、「べき」を使わないほうが恋愛を考えるときに(なにを考えるにも)有効だと表現するのが、読者にとっても書き手にとっても有効でしょう。

わたしが「してほしい」のに、それを、あなたが「するベき」と無意識に言い換えてしまわないように注意するのも大切なように思います。解像度を高くして考えると、そう言い換えてしまうのもまた「致命的な暴力」になりえることがわかってきますね。

想定した「混乱している女性」像

僕の念頭にあった「欲望と信念とが矛盾して本人も混乱している女性」とは、たとえば、好きになったら自分が傷つけられるとわかっている相手に恋してしまって、それで苦しんでいる女性のことです(そういう男性もいると思いますが、そちらの話は、いったん置きます)。

この場合「クズ男が好き」が欲望で「自分のそういうところがダメ」が信念ともいえますが、「ああいう男に心を食われないような女になりたい」というのが欲望で「自分は、ああいう男と知りあうと恋をしてしまう女である。だから今回も、きっとまた恋をする……。ほら、やっぱりしてしまった」のほうが信念、と考えることもできます。

ということは、これもまた月美さんのご指摘どおりで「心の穴から生まれる欲望」と「心の穴から生まれる信念」にちがいはないというか、同じものですね。

そして「心の穴は埋まらないけれど形を変えることはできる、なんてフワッとしたことを言ってないで、心の穴が生むものは信念やくせにすぎないのだから解除できるのだ」という話になったんだから、またわざわざ欲望なんて呼びかたをしなくてもいいのかもしれない。

しかし「ある人が持ってしまっている2つの信念が互いに矛盾していて、それによる混乱が当人を苦しめている」ということはありえます。『すべてはモテるためである』の最新版に足した第5章で、僕はこう書きました。

それぞれの女性によって、それはさまざまなかたちをとるだろうが、彼女たちが言っていることは本質的には共通していて、ようするに「私を抱きしめて。支配して。でも同時に、私を自由にして。私をコントロールしないで」と言っている。

二村ヒトシ『すべてはモテるためである』文庫ぎんが堂、2012、p. 202 

「抱きしめて。支配して。」などと、またエモいこと書いているわけですが、これももしかしたら男性である僕がエビデンスなく勝手に妄想しているだけなのかもしれません。

女性たちは「抱きしめながら、自由にもさせて」とは言っているけど「支配して」などとは一言も言っておらず、われわれ男性が勝手に「そう言われたのだ」と自己正当化をしている可能性が高いです。

女性たちは、月美さんが言うとおり「私をちゃんと見て」と何度もちゃんと言っていて、われわれ男性の耳がそれを聴き取れていないだけなのかもしれません。

「矛盾に混乱している女の人は苦しそうだ」などという僕の感覚自体が、そもそも僕の主観による大きなお世話であるのかもしれません。「女の人の心の穴の矛盾」は、じつは社会によって「矛盾させられているもの」なのかもしれません。

また、『欲望会議――性とポリコレの哲学』(角川ソフィア文庫)で千葉雅也さんが述べておられることとつながりますが、おそらく欲望には心の深いところで形成されてしまい後からはリセットしにくい欲望と、自分の矛盾に気づくことでリセットしやすい欲望とがある。

リセットすることができるレベルの欲望こそ欲望なんて呼ばないで「そうしたいのだという信念」あるいは「強い思いこみ」と呼んでもいいのかもしれません。

だとすると「欲望と信念は、同じように心の穴と本人が置かれた環境との交接点に形成されて、同じように感情や言動に作用するものではあるが、深さがちがうもの」なのかな。

好戦的な人物がいるとします。戦わなければならないという信念の持ち主なら、その信念は認知を変えることでリセットできるでしょう。その人の「戦いたい」という欲望が心の深いところにあるのであれば、欲望そのものはリセットしにくいでしょうが、「誰を敵だと見なして戦うのか」は変えることができるかもしれない。

といった含みは持たせつつ。

『欲望会議』で柴田英里さんが述べておられたように、人間には愚行権、つまり自分の人生を損なうだろう愚かなことをする権利が、あるという考えかたがあります。(もちろん愚行権を行使した人がその結果として狭義の暴力の犠牲になったときに、被害者の自己責任という言葉で、暴力をふるった加害者が免罪されることはあってはならないと思います。それはまた別の話です。)

矛盾していること自体では、人は苦しくはならない。矛盾していることに混乱したり、矛盾している自分に罪悪感を持つから苦しむ。

「私の欲望はいくつかあって矛盾しているが、そういうものなのだ」と当人が把握できていて、そのことで周囲を必要以上に傷つけていないかを確認できていれば(その確認によって「思いこみ」である罪悪感を手放せれば)それでいいんじゃないか。

月美さんのいう通り、本人が「本当にそれが、長期的に、自分にとって心地がよいのか」を判断できればいい。判断がつかないくらい混乱しているのであれば問題ですが。

これも僕の観測範囲内での話であってエビデンスはないんですが、どうも現代では男性のほうが信念をタテマエ化しやすい(自分に嘘をついても当面OKな)社会構造になっていて、自分の欲望や信念の矛盾に苦しまずにすんでいるような気がします。

それもまた女性差別のひとつだと思います。

「男には性欲があるのだから、浮気をしてあたりまえだ」なんてのは多くの場合あんたの信念にすぎないのではないか、あんたの性欲は本当に身体の欲求なのか、それこそ支配欲や「さみしさ」などの心の穴の作用じゃないのか? という検討が、なされていない。

支配したい欲を持ちながら狭義の暴力をふるわないですむ方法も、支配されたい欲望を満足させながら関係の全体としては支配されないでいる方法もあるだろうと僕は思っています。

それには「セックスという遊びの中だけで支配・被支配の関係を作ればいい」のだ、と『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』に書きました。しかしこれもどうも「男性にとって都合のいい話」っぽいですね。そうでもないのかな。

この書簡はそもそも月美さんの「二村の恋愛論に、傷ついてはいないが、痛みを感じる」 というお話から始まっています。

僕は他人の傷や痛みに鈍感すぎるので、そのへんを慎重に考えたいです。

「見ること」を僕なりに考えました

恋愛は基本的に二人の人間ですることです。その二人が女性と男性のペアであるとは限らないのですが、月美さんの提言でこの往復書簡では、さしあたって「男女」のことを考えています。

月美さんは、「男性は女性に対して、すべての狭義の暴力を振るわないようにしよう。支配をしないようにしよう」「人間は恋愛に、相手から承認されることと、相手と親密になることを求めている。だから男性は、女性のことをよく見て(その女性が承認されたい部分を承認して)勇気と配慮をもって接近することで親密になろう」と言ってくださいました。

さて、恋愛がうまくできない男性を、さしあたり2種に分類します。

  • 交際を長続きさせることができない男性や、交際したはいいが相手を支配しようとしてしまう男性

  • そもそも恋愛を始めるために動くことがうまくできず、恋愛を始めることができない男性

まず前者に関しては、月美さんの提言がドンピシャあてはまるように思います。

あたりまえでありながら忘れられがちなことですが、恋愛をとりあえず始める能力がある人間は(男も女も、です)好きな人とつきあったほうがいい。なぜなら人間は、好きな人のことは「ちゃんと見るから」です。

問題になってくるのは「心から愛せる相手と、どうやってめぐり会えばいいのか」という、おなじみの問題ですね。

多くの人がインターネットの出会い系アプリで恋人候補者と出会えるようになり、どんどん出会えるもんだから、少しでも愛せない部分があるとどんどん次へ行き、けっきょく誰も残らず誰とも愛しあえないという話をよく聞きます。とくに女性からよく聞きます。古いタイプの男性の場合は、次から次へと女性を選別できる状況に(もちろん同時に自分も選別されているのですが、そこは感じないようにして)インチキ自己肯定することができて、むなしさを感じるまでに女性より時間がかかるのでしょう。

そこで「相手をちゃんと見ようよ」という話です。

「聴く」というのは、相手から発せられた音を、言葉として聞いているわけです。『すべてはモテるためである』には「相手の言うことをちゃんと聴くこと。聴くときにはジャッジ(判断)や分析をしないで、ただ聴くこと」ということを書きました。

しかし言葉で聞いている以上、聴くという行為にはどうしたって判断や分析がつきまとう。相手だって何かの意図をもって言葉を発するわけですから。

相手の言葉を聴くことは、相手が「自分にとってどうなのか」というジャッジが常に頭をよぎる。

相手をちゃんと見ようとすることは「相手がどういう人なのか」のすべてを見ようとすることで、もちろんそれでも「見えてない部分」は常にたくさんあるのですが(秘密にしているところまで見ようとしてはいけないと思います)それも含めて、その人をそのまま承認しようとすることです。

相手だって、混乱しているときだと「言いたいわけじゃないこと」が(心の穴の作用によって)つい口から出てしまうこともあるでしょう。言葉を聴くことにこだわっていると、その相手の混乱をぜんぶ真にうけて、引き受けなければいけない。それは、なかなか大変なことです。けんかになる。気に食わない部分に対して、変えたいという支配の欲望が動いてしまう。

「聴く」ではなく「見る」であれば、見ているうちに相手に「全体」がある他者だということが、自分がイメージできているだけの存在ではなく、奥行きがあって生きてる人間だということが、わかってくる。

そもそも相手の全体を見るようにするということは、その相手のことを「好き」でないと無理だと思うのです。

ちゃんと見ようとしているうちに自分の頭の中のイメージではなく相手の全体を好きになってくるかもしれない。そうやって初めて「相手が求めるような親密さ」が築けるようになるのかもしれません。

そして、ちゃんと見ていても好きになれない相手とは別れたほうがいい。

また、相手をちゃんと見ようとすることで「ナルシシズムの鏡で自分のことばかりを見ている時間」が多少は減るかもしれない。相手を「自分に適したかたちにして支配したい」と思うのはナルシシズムでしょう。

自分で書いていて(月美さんの言葉を咀嚼しようとして)まだ腹におちておらず、いささか有用性や具体性に欠く観念的な話になってしまいましたが……。

非モテと呼ばれる男性には

さて、後者のような「恋愛を始めることができない男性」は「非モテ」と呼ばれてしまうことがあるようです。当人たちもそう自称することがあります。

交際しているという合意が取れていない相手を、見ようとする(向こうが承認されたがってるわけではないのに、ことさら承認しようとする)のは失礼なことです。交際の相手はアイドルとか芸能人とかアニメキャラじゃないんだから。

彼らの中には(じつは恋愛が「できている」男たちの多くも同じようなものなのですが)、人間が恋愛といういとなみに求めていることが「承認した相手から自分も承認してもらうこと。おたがい承認しあうこと」だと、わかっていない人も多いのでしょう。とにかくまず自分のことを承認してくれ、愛してくれ、そうすれば自分は生きやすくなると思っている。

そう思ってしまうことの裏側には彼らなりの傷つきがあるように僕は思います。ですが、そういうふうに彼らを分析することは(男性が女性の苦しみを分析してわかったような顔をすることが、侵入からの支配という暴力であるのと同じように)大きなお世話なのでしょう。

自分の中の矛盾(あるいは社会との矛盾)に苦しめられてる女性のことを「メンヘラ」と呼ぶのが失礼であるように、彼らのことを当事者ではない者が「非モテ」と呼ぶのも失礼なのでしょう。

月美さんはよく「私の仲間たち」なる表現をされ、その人たち(そういう女性たち)のために文章を書き、その人たちのために行動されておられます。

僕も、僕にとっての仲間とは誰のことなんだろうと考えました。僕は僕自身のことを「多少はモテる男」だと思っています。ですが、僕がイメージできる「仲間」というのは後者のような男性なのです。

それは僕自身が、モテていても自分が非モテであるような認知が消えない(そのことがまた僕の焦りを生んで、いつまでも女性への侵入を行わせているような気もします)ことが原因でしょう。そういう自分について「そういうものなのだ」と思ってはいるのですが。

という前提で(なんの免罪符にもなっていませんが)考えるならば、我々(僕と、僕の仲間)は「配慮しながら勇気を持って近づくこと」と「支配するために暴力的に侵入すること」の区別がつかないのです。マジで。

それは、それこそ心の穴の問題(漠然としたミソジニーや、女性一般への恐怖によるもの)である場合もあるでしょうが、生まれつき心に埋まっている「石」による場合もあるかもしれません。

そうすると、そこで有効なのは認知行動療法的なセルフケア、男性たち自身による心の穴の当事者研究、あるいは月美さんの『ウツ婚!!』が苦しい女性たちに示したような「ていねいなセルフケアの教科書の男性向け版」なのかもしれません。

二村ヒトシ