全卓樹「ピーター・ターチンの数理的歴史学」――『不和の時代(仮)』(ピーター・ターチン著、青野浩ほか訳、今秋刊行予定)に寄せて
歴史は繰り返すか
歴史は繰り返さない。歴史家たちが同じ話を繰り返すのだ。
この言葉を記したのがオスカー・ワイルドだったのか、それともマックス・ビアバウムだったのか、事情ははっきりしない。しかし歴史記述に関する重要な論点に、この言葉が触れていることを見過ごすわけにはいかない。歴史書を紐解くとそこに類型、パターン、繰り返しが見出されるのは事実である。たとえば都市国家たちが競った古代ギリシャ、春秋戦国の中国、ルネサンス時代のイタリア、革命前のロシア。統一権力確立直前の戦乱の中、技術革新と学術文化の開花が見られたこれらの時代は、時と場所を超えてどれも驚くほど似ている。その原因には二通りが考えられるだろう。それは単に類型を求める歴史家の記述によって、違った事象たちが似て見えるだけかもしれない。あるいはそれらの時代の間に真の類似性があるのかもしれない。
歴史物語は部族や民族集団の中で共有された説話として始まった。それは集団の統合の不可欠の要素だった。目的を共有するそのような説話に共通のパターンがあるのは当然であろう。支配者の神的起源と彼または彼女による聖なる集団の統合、抑圧的な他民族支配からの苦難に満ちた脱却の物語、剣と血と超自然的契機が相まって与えられた領土。民族創世神話はどれも、入れ替えが効くほどそっくりである。
しかし一方、違った時代の違った場所で、社会的諸勢力の類似の配置があることも考えられる。戦乱時代の競争が技術革新の百科繚乱を生み出し、その中から統合権力が出現する様子。平安の世の安逸と自己満足が社会の退廃をもたらし騒乱の時代の契機となる事情。王朝の数百年単位の周期的な交代。定住農耕民の上に騎馬征服王朝が立ち上がる状況。類似の環境のもとで人々の間に類似の相互作用が働いて社会が変化していくとすれば、歴史に繰り返しがないほうがむしろ不思議であろう。
歴史に繰り返しがあって、共通の構造や共通の力学があるとすれば、その中から法則性を引き出せるだろう。そして歴史に法則があるとすれば、その法則性は我々の将来の予言につながるだろう。それは現代の政策決定者たちの道具となるはずである。「実用的な科学」としての歴史である。
21世紀前半のロシアのウクライナ侵攻は、20世紀初頭にあった同国のフィンランド侵攻と似ていないだろうか。ウクライナ国家指導者にとって、フィンランドのとった政策から引き出せる教訓は多いかもしれない。対して明らかに共通要素の少ない歴史事績、たとえば満州事変から引き出せる教訓は少ないだろう。その類似と相違はどの程度だろうか、それをなにかの数値を使って定めるられるだろうか。「実用性」を問い始めると、予言の確度をめぐって必然そのような定量化が問題となる。歴史に見出されるはずの法則性を定量的に解明することができるか、この問いがピーター・ターチンの歴史学の出発点である。
歴史力学
仮に歴史になんらかのパターンや法則があるとすれば、それは数学によって記述できる定量的なものだろうか。それとも歴史事象の複雑性偶然性を考慮すれば、法則は定性的なものに止まるのだろうか。そして自然言語によって定性的に記述された歴史法則というものがあるとすれば、それは通常の歴史記述と事実上区別がつかないのではないか。
しかし歴史の法則を探る場合、こういった「先験的な議論」はあまり有益ではないだろう。むしろ作業仮説とその検証を通じて数学的法則の存否を探る経験科学的手法が有効なのではないか。米国コネチカット大学の数理生物学教授だったピーター・ターチンは、歴史の研究を志した時にこう考えた。
ターチンは多数の生物が共存して織りなす生態系の力学を、微分方程式を用いた数理モデルを用いて調べていた。それは近年気象学や地震学でも用いられている「複雑系物理学」の概念、言葉を変えれば「力学系」概念に基づいたモデルである。
定量的数理的な歴史学がどのようなものとなるかについては、地震予知の科学を例にとって考えるのが良いだろう。海や大陸を載せた多数のプレートが全体で地球を覆ってゆっくりと運動している。プレートの間の境目で一方のプレートが他方の下に沈み込んでいく。プレートが歪んで溜まった圧力が何かをきっかけに解放されて地震となる。この歪みの蓄積過程は物理現象として正確に予言できるが、実際にいつ地震が起きるかは偶然のきっかけに左右され、それを予知することは困難である。定量的歴史学に期待されるのは、暴動、政変、戦争といった歴史上の突発的諸事件そのものの予言ではなく、それら諸事象の根底にある社会の動態を解明して、歴史的諸事件が起こりやすい状況を予言することであろう。
帝国力学と王朝の交代
ターチンが最初に目を向けたのは、前近代の農業社会で立ち上がった数々の帝国の歴史の中に見られる力学的な構造であった。範となったのは中世アラビアの歴史家、イブン・ハルドゥーンによる北アフリカ同時代史の研究である。そこで見られたのは、遊牧民の征服王朝が数世代を経て弱体化し新たな遊牧征服王朝で置き換わるサイクルで、イブン・ハルドゥーンはそれを国家の人口や経済力で測る国力と、彼が「アサビーヤ」と呼んだ向社会性の精神的資源との相互作用として理解したのだった。
ターチンは国力とアサビーヤをそれぞれ単一の量で表すという大胆な仮定をおこない、それらの量の相互作用を表す微分方程式を書き下して、数百年にわたる王朝の盛衰をその方程式の解として表現した。これがターチンの「帝国力学」である。
政治的軍事的安定性を考えると、アサビーヤの発生と衰退は帝国の周縁と中心の間の地理的相互作用とも見做せる。ターチンはこれに着目して諸王国間の相互作用の力学モデルを作りあげ、それを中世欧州、そして中国諸王朝の興亡の史実と引き合わせてみた。そして十分に説得的な定量的一致があると結論付けたのである。
構造=人口動態理論と歴史の周期
ターチンが次いで目を向けたのが、一つの国家社会の中での国力や精神的資源の時間的変動の様子である。
数理生物学において生態系の記述で基本となるものが「ロトカ=ヴォルテラ微分方程式」であって、それが記述するのは次のような現象である。安定した資源もしくは餌場を持った一つの生物種は、最初急速に人口を増やして、餌場の収容量いっぱいの定常状態で安定する。二つの生物種がいる時、その関係が強く競合的だと一方が絶滅し、競合がほとんどない場合に一つの餌場を共有して並存する。二つの生物種には別の共存形態があって、それは一方が他方を資源として捕食する関係にあるものである。この場合被食者の人口と捕食者の人口は位相をずらして増減を繰り返す振動を見せる。多数の生物からなる生態系では、絶滅せず残存した生物種たちが多層の捕食関係をなして、どの種も人口を振動させながら、全体でピラミッド構造を形成している。
このような生態系の頂点に立った上で、さらに農業と牧畜によって環境の変動から解放された人類はどのような状態にあるのだろうか。われわれは定常的な安定状態の涅槃に住むのだろうか。この安定状態が実は安定ではなく、資源の配分をめぐる争いに起因する戦争、それに伴う飢餓や疫病によって崩壊するのではないかと考えたのがトーマス・マルサスである。そして数を大幅に減らした人類は改めて急速な増殖の時代を迎える、と彼は考えた。
この資源の配分をめぐる争いについてより詳細な考察を加えたのがカール・マルクスであった。彼は人類の歴史の推進力が階級闘争、すなわち支配者と被支配者、エリートと一般民衆の間の動力学にあると考えた。支配層の繁栄拡大は被支配層の一層の収奪につながり、窮乏化の極みにあって被支配層の反乱がおきるだろう。この階級闘争の必然の革命力学が人類に至福の最終的安定状態をもたらすと、マルクスは考えた。
一見安定な定常状態が不定期に崩壊するというマルサスの見方と、諸階級の闘争が歴史を作るというマルクスの視点を合わせた上で、数理生物学に倣った力学系理論として人間社会の時間的進行を探ろうというのが「構造=人口動態理論」である。これはジャック・ゴールドストーンの1991年の研究を嚆矢とするが、それを歴史データと比較できる実証的な体系として完成させたのがピーター・ターチンである。
ターチンは歴史の進行を主導するアクターとして、エリートと一般民衆そして国家機構という三者を考え、それらの特質を表現する複数の力学量を想定する。それらの力学量たちはお互いに作用しあって全体で力学系をなして、力学量たちの時間的な変動は微分方程式の解として表現される。さらにそれら力学量の関数として、社会に蓄積された歪みを表す「政治的緊迫指数」が定義されて、その大きさは暴動や騒乱の頻度として観測されるだろう。ターチンはこのような道具立てで社会変動の一般的なモデルを組み上げて、パラメータを調整しながら、時代も場所も異なる複数の歴史事象から集積したデータとの照合を試みた。その結果見えてきたのが、様々な社会を通じて普遍的な、それぞれおよそ五十年と数百年の周期からなる、二重の循環的な社会変動であった。
構造=人口動態理論の描く社会変動はおおよそ次のようなものである。十分な基礎資源をもつ環境に立ち上がった社会集団は急速に発展し、その中でエリート集団も拡大する。やがて労働力の過剰供給が民衆の貧窮化とエリートの富裕化をもたらすが、これは必然エリートの地位をめぐる競争と、その結果としてのエリートの過剰生産を引き起こす。希少になってゆく良い地位をめぐるエリート内の争いは、国家の財政規律の喪失、そして民衆の格差への不満と共鳴して、社会は分裂と衰退、そして争乱の時代を迎える。争乱はエリート人口の十分な減少を見るまで続き、そこから社会の新たなサイクルが始まる。
構造=人口動態理論と現代アメリカ合衆国
セルゲイ・ネフェドフとの共著『永年サイクル』においてターチンは、英国、フランス、古代ローマ、ロシアの政治経済史を解析した。それによって「構造=人口動態理論」が十分実証に耐える経験科学的な歴史理論であることを示したのである。
ここで重要だったのは、現実の歴史と理論とのすり合わせを行う際、希少な「生の歴史データ」をそのまま用いる代わりに、それらを組み合わせて「複合指標」を作ることで、十分な統計的定量性を確保することであった。たとえば「国家財政の不健全度」「社会の不平等性」「エリートの過剰生産度」の三つの量の積として求められる「政治的緊迫指数Ψ(t)」は、大学の学費、殺人数、当選に必要な選挙費用の平均、マスメディア上の特定の言葉の頻度、といったあらゆる種類の時系列データを代理指標としてそれらの組み合わせで作られる。そしてその指数Ψ(t)は、動乱、テロ、戦争、革命といった劇的事象の発生頻度を予知するのである。
本書『不和の時代』は、建国直後から2016年現在までのアメリカ合衆国の歴史を、自らの構造=人口動態理論の道具立てを用いて解析し再解釈したものである。アメリカ史の本というよりは、むしろターチン歴史力学の例証を旨とした本と言っていいだろう。時々出てくる方程式、頻出する数表とグラフ。どれも歴史の本としては異例であろう。
農業を基盤とした前近代社会で成功を収めた構造=人口動態理論が、工業化以降の近代社会でも有効かどうか、全く自明ではない。しかし本書の解析の結果を見ると、代理指標の選択の少々の変更だけで、この理論が近現代社会にもよく適用されることが理解できる。それはたとえば、2020年の騒乱の予言によって如実に示されている。
データと数理の眼鏡を通して描かれたアメリカは、われわれが通常知っているものとかなり異なって見える点も多い。そしてそこから過去と現在の意外なつながりが浮かび上がってくる。ターチンのいささか突き放した見方、皮肉と思われるほどの刺激的な視点が至る所で見られる。それは本書を論壇での論争の対象とするだろう。南北戦争は、新産業普及に伴うエリートの過剰生産に起因する北部エリートと南部エリートの必然的な果し合いだったのだろうか。20世紀半ばの進歩と拡大の時代は、直前の1920年代の争乱時代の旧エリートの没落の直接の帰結なのだろうか。定期的に起こる国外での戦争は、エリートの雇用対策として、社会内競争の緩和として働くのだろうか。それは社会の退潮の反転に役立つ一方、道徳的退廃につながらないだろうか。現代に独特と考えれている諸事象、たとえば「ネオリベラリズム」、高等教育の広い普及、高度の所得格差等が、典型的な衰退の兆候として19世記半ばの事象と比較される。こういった論点は、議会襲撃に至った政治的分裂や疫病の蔓延に悩む現代アメリカの行く末に、必然、暗色の示唆を与えることになる。
アメリカは前回の1970年代超える大きな市民騒擾の時期に入ったのだろうか。混乱と衰退はもはや避けられないのだろうか。救いは本書掉尾に見出される。ターチンは語っている、歴史力学の理論を展開したのは必然の運命の預言者になるためではない、歴史進行の力学の理解が、我々自身の適切な政策の選択を助け、より良い将来の到来を助けるためであると。
実用科学としての歴史学
ピーター・ターチンは現在進行中の政治的社会的事象への発言も積極的に行なっているが、一見すると政治的立ち位置は分裂的である。ある論説で大学進学率は現状高すぎなので下げるべしと右翼論客的論陣を張ったかと思えば、別な論文では経済不平等の野放しの危険性を指摘して、ピケティやミラノヴィッチとならぶ左翼系論客のような色合いを帯びる。アフガン戦争の終結後、タリバン政権がアフガンに発展をもたらすとの記事を発表して皆を煙に巻く。しかし本書を紐解いた読者には分かるのだ。ターチンの発言は全て、彼自身の作り上げた数理的歴史力学の背景から発していることを。表面的な政治的左右の色分けとは没交渉の、理論的一貫性を持っていることを。
ターチンの歴史力学は、「力学系理論としての歴史学」であると同時に「データサイエンスとしての歴史学」でもある。それは21世紀というわれわれの時代の技術的進展を待って、はじめて成熟を迎えた新傾向の人文社会科学である。具体的な歴史事象の分析に際して、それはまだ完全からは程遠いが、有効と認められる部分、成功を収めている部分多々あるとは、衆目の一致するところだろう。そしておそらく、選挙費用と殺人率の相関といった、新しい解析で初めて明らかになってきた数理的知見こそが、個々の事象の解釈の妥当性の有無にも増して、ターチンの歴史学への重要な貢献なのではないか。
ターチン歴史力学は決して従来の歴史学をおしのけて、それに置き換わるべきものではない。国家や民族集団の過去を政治的事象の原因結果の連鎖として記述する主流派の歴史学者たちも、いつまでもこの新傾向を無視し続けるわけにはいかないのではないか。むしろターチン歴史力学の手法を、従来の歴史学を補足し補強するものと考えて積極的に取り入れていくべきなのではないだろうか。
それはとりわけ、新しい良いテーマ探す理論物理学や数理生物学の若き研究者たちにとってのフロンティアとなるだろう。また数学的手法を取り入れて新境地を拓こうという若手歴史学者の格好の研究分野であろう。それは時代の喫緊の要請でもある。新しい実用科学としての歴史学が立ち上がってくるためには、新しい才能の参入を欠かすことはできないだろうから。