vol.3 樹海村:発見された本当の「隠れ里」とは――吉田悠軌の異類捜索記
「青木ヶ原樹海には、知られざる秘密の集落がある」
そんな都市伝説を聞いた人は多いはずだ。どれだけ昔からささやかれている噂なのか、私も正確な時期の特定にはいたっていない。ただその集落が「樹海村」と称されるようになったのは、おそらく2000年代半ば頃からではないかと推察される。ネットのログをさかのぼっても、老舗サイト「都市伝説広場」にて2006年9月17日に掲載された「樹海村」記事が初期の例となるだろうか。
「樹海の中には自殺をしそこなったり、自殺をやめようにも社会復帰ができない人々が集まった集落が存在し、そこでは浮世離れした村社会があるという」
私自身、似た噂を複数の知人から聞き及んだのは、これくらいの時期だったと記憶している。しかしなぜこのタイミングで、青木ヶ原樹海にあるという秘密の「樹海村」が注目されたのだろうか?
言うまでもなく、樹海そのものはずっと昔から存在する場所だ。「自殺の名所」イメージが一般に定着したのが、松本清張『波の塔』の影響だとしても、原作連載は1959年のこと。その後も定期的にテレビドラマ化されているものの、50年近いタイムラグを経て、ようやく「樹海村」伝説が発生したことの説明にはならない。
その他に思いつく理由としては、オウム真理教事件の影響が挙げられる。上九一色村に存在していたオウムの集団施設「サティアン」の記憶が、樹海にたたずむ秘密の集落というイメージ醸成に寄与したのではないか。
2000年代に入ってから、インターネットや雑誌での「樹海ルポ」が目立ってきた経緯もあるだろう。この時期には、潜入取材で有名なルポライター・村田らむ、ネット時代の廃墟ブームを牽引していた栗原亨などが、樹海へと活動のフィールドを広げていた。 「最後の秘境、青木ヶ原“呪界”その謎と伝説を完全解明!」との宣伝文句を付された『樹海の歩き方』(栗原亨、イースト・プレス)刊行が、2005年4月である。
また別の、さらに大きな要因も考えられる。日本のどこかに秘密集落が実在しているらしい……といったタイプの噂ばなし、「こわい村」にまつわる都市伝説の変遷だ。
「こわい村」という話題は、大衆の興味にフィットした、非常にバズるホラー・コンテンツである。私個人の経験としては、出版社やテレビ制作会社との打ち合わせにて、たびたび以下のような打診を受けていたりもする。
「“こわい村”ってありませんかね。山奥でも離島でもいいんですが……一般大衆から隠されている、怪しげな村。知られざるタブーや因習がはびこる、閉鎖的な田舎の恐怖。そんな村、ご存知ないですかね」
耳にタコができるほど訊ねられた質問だが、それだけ読者や視聴者の受けがいいらしい。しかもその「こわい村」は、日本国内でなくてはいけない。海外の奥地に、我々に知られざる集落があり、そこで我々とかけ離れた奇習が行われているのは、別に当たり前。「そりゃそうだろう。遠い異国なんだから」という感想になってしまう。
そうではなく、この日本で、自分たちの生活と連続するどこかに、しれっと「こわい村」が存在するからこそ面白いのだ。
地理的にはさほど遠くないところに住む人々が、我々と異なる文化を隠し持っているという精神的遠さのギャップ。そこにおどろおどろしい「因習」「タブー」が見え隠れすれば、なおいっそう興味をそそられる。そんな地続きの異界として、すぐ隣のエキゾチシズムとして、我々は「こわい村」を求める。
最近の例でいえば、ルポルタージュ『つけびの村』(高橋ユキ、晶文社)、映画『犬鳴村』(清水崇監督)『ミッドサマー』(アリ・アスター監督)がヒットした一因を、大衆の「こわい村」需要に求めることもできるだろう。さらに現在、『犬鳴村』と同じ清水崇監督により、そのものずばり『樹海村』の撮影がクランクインしている。ホラー・コンテンツとしての「こわい村」は、現在ますます求められている状況なのだ。
こうした欲求は、なにも今に始まったことではない。例えば、民俗学の著作として日本一有名だろう柳田国男『遠野物語』。遠野地方や土淵村の「こわい話」を聞き書きしたあの著作にしても、やや俗っぽい「こわい村」的な興味を少なからず見いだせるではないか。また、その『遠野物語』が再ブームとなった1970年代半ばには、期を一にして国鉄「ディスカバー・ジャパン」キャンペーン、横溝正史「金田一耕助シリーズ」のリバイバルが起きていることも興味深い。
現代人が求める「こわい村」をイメージするには、映画も含めた「金田一耕助っぽい世界観」を例に出すのが、もっともわかりやすい(というより、金田一シリーズが我々に大きな影響を与えているのかもしれないが)。『犬神家の一族』『八つ墓村』のような、因縁と祟りがドロドロと渦巻く閉鎖空間のイメージ。そうした前時代的な集落が、近代化されたはずの日本国内に並列している怖さ。
ダジャレめいてしまうが「近代知(キンダイチ)=近代社会の常識に生きる我々が、前近代の闇に生きる彼らと出会う」というインパクトこそが、「こわい村」の重要ポイントである。それはとりもなおさず、我々自身の精神の奥底に、いまだ合理的な近代知からはみだす「闇」が残っていること。それを思い知らされる恐怖なのだ。
ただし言うまでもなく、小説や映画ならともかく、現実世界において我々が求めるような「こわい村」など、どこにも存在しない。そんなものは実際とかけはなれた、一種の幻想郷だ。
それでも2000年前後までは、各地のローカル怪談として「こわい村」の噂はかろうじて残されており、その実在を信じる人々(主に若者たち)も多少は存在していた。しかしインターネットの普及・発展(特にGoogleの台頭)は、誰でも簡易にリアルタイムの地域情報や地図情報へのアクセスを可能にしていった。噂の場所を衛星写真でいくらでも確認できてしまうのだから、「こわい村」が実在するという幻想など粉々に打ち砕かれてしまう。ちなみにその前夜、芽生えはじめたインターネット文化と口コミの相乗効果によって流行した「杉沢村」「犬鳴村」こそが、「こわい村」をめぐる最後の巨大打ち上げ花火であり……。といったあたりの考察は、私も各所にさんざん書き散らかしているため、これ以上言及しない。
Googleマップの日本公開は2005年7月、すでに衛星写真・航空写真の切り替え表示も可能となっていた。このような時代において、かつての「杉沢村」「犬鳴村」のような秘境ロマンは、もはや無邪気に空想することすら難しくなってしまった。
それでもまだしつこく、どこかに「こわい村」が残されていると妄想するならば。衛星写真でも捉えにくい、深い森におおわれたような地域なら、一縷の望みはあるかもしれない。そう、例えば、富士山麓に広がる青木ヶ原樹海のような……。
以上のような「こわい村」都市伝説の変遷によって、二〇〇〇年代半ば、「樹海村」が生まれたのではないだろうか。
もっとも「樹海村」という話のスケールは、「杉沢村」「犬鳴村」と比べれば、まことに小規模なもの。盛大な打ち上げ花火の後の、しけった残り火にしか過ぎない。ただ、そんな「樹海村」にまつわる言説が、二〇一〇年代に入った頃からまた新たな様相を呈することになる。
皮肉なことに、「こわい村」幻想を葬り去ったGoogleマップによって、あるポイントが「発見」されたからだ。
「本当は恐ろしい山梨県」との呼び名で、2ちゃんねるを中心に広まった画像。そこに写されているのは、青木ヶ原樹海に囲まれた、謎の集落である。緑深き森に突如として設置されたかのような、あまりにも人工的な長方形の区画と建物群。そのコントラストの異様さは、人跡未踏の奥地に潜む秘密基地といった想像をかきたてられる。
この樹海村には、いったいどんな秘密が隠されているのか……。「完全閉鎖された立入禁止の村」「犯罪者たちの逃亡集落」「政府の秘密研究施設」などなど、様々な憶測が語られた。
もちろん、それらは勝手な妄想に過ぎない。
まず、ネットで出回っている画像自体がトリックだ。周囲が原始林だけに見えるように、恣意的なトリミングや位置ずらしがなされている。少しズームを引いたり北東の方角をチェックすれば、国道の富士パノラマラインに面し、観光地の精進湖が近いこともわかる。中央自動車道やJRの駅までは車で30分。とても秘境と呼べる立地ではない。
そこは「精進集落」。かつて70もの世帯が居住し、郵便局や小学校も存在していた立派な町だ。住人の多くが宿泊業を営み、最盛期には24軒もの民宿が連なっていたため「精進民宿村」の呼び名でも知られていた。
私もその村を訪れたことがある。ちょうどインターネットで「樹海村」が話題になっていた頃、某コンビニ雑誌からの依頼にて現地取材を行ったのだ。
全国の地方集落のご多分に漏れず、精進集落もまた少子化・過疎化の波にさらされている。私が訪れた時には、もう現地の小学校すら閉鎖されたところだった。
「若者が外に出ちゃうから跡継ぎもなくて、今は民宿も半分以下しか残ってないよ(※取材当時)。小学校もなくなったしな」
精進民宿村の代表的な宿「樹海荘」のご主人は、そう嘆息していた。
この土地はもともと、樹海ど真ん中にごっそりに大きな穴があいていたエリアだったという。それを昭和42(1967)年に整地し、4年後、山側にあった集落が丸ごとに引っ越してきた。だから人工的な長方形の区画となっているのだ。
「当時は国が民宿業を奨励したから、ここが民宿村になって。確かに昭和47~49年は山ほどお客さんが来て“廊下でもいいから泊めてくれ”と頼まれたりしてな」
しかしレジャー産業の変遷により、若者が富士五湖で遊び、民宿に泊まるといった風潮が衰えていく。2013年の富士山の世界遺産登録も、特に観光客増加に繋がりはしなかったようだ。こうした知名度の急落が、「樹海村」伝説を広める原因となったのだろう。かつて首都圏の観光スポットとして知られていた精進民宿村。しかし現在では、整然たる区画を写した俯瞰画像を見て、「あそこだ」と思い当たる若者は少なくなってしまった。
ただ「どうして、ここまで人工的で性急な土地開発をしてまで、わざわざ精進集落を造ったのか?」という疑問は残る。
「それはもう、西湖の方で大災害があったから、うちらも危ないと思って。富士の北の尾根から、こっちに引っ越したんだ」
昭和41(1966)年9月25日未明。関東に上陸した台風26号は時間雨量100mmの記録的豪雨をもたらした。それは西湖湖畔において、猛烈な土石流を引き起こしたのだ。山津波に襲われた「根場(ねんば)」「西湖」の2集落はほぼ全ての家屋が破壊され、94名の死者を出す大惨事となった。
一年後、崩壊地に村を再建する危険から、住民たちは移転を決意。彼らの多くが民宿業を営み、それが現在も続く西湖周辺の民宿村となった。そして精進集落もまた、彼らに倣って集落ごと引っ越した……という経緯だったのである。
真相を知った私は、そのまま西湖の災害現場にも足を運んでみた。現在、同地には「西湖いやしの里 根場」なる商業施設が開園しており、当時の茅葺き屋根の集落が再現されている。山の斜面に挟まれた土地に、茅葺きの家々が並ぶ光景は、確かに美しい。だが昭和41年の惨状を知ってしまうと、大惨事にて滅びた村をそのまま再現していると思うと、どこかもの哀しくも霊妙な気配を感じてしまう。
声をかけた施設スタッフが、ちょうど地元育ちの女性だったため、当時の記憶を尋ねてみた。
「根場は、もう本当の隠れ里でしたよ。何度も村の近くを通り過ぎていた私も、存在すら知りませんでしたから」
平家の落人伝説もある根場は、山間に隠れるようにして養蚕と放牧を営む小村であった。舗装路どころか車の通れる道も無く、荷車か馬車でしか行き来できないほどの孤立ぶりだったという。そのため昭和41年の災害時、一帯は泥の海と化した。救助に向かった周辺住民たちも、村のずっと手前の地点から、膝まで泥に埋まりつつ山道を進んでいったそうだ。
一夜にして消えた隠れ里……。
これこそ、まさに「杉沢村」伝説を彷彿とさせる話ではないか。「樹海村」の都市伝説にしても、精進集落より、この村こそがふさわしい。
今も災害危険地域として居住は禁じられているが、2003年の町村合併を機に、ようやく土地活用されることが決定。そして2006年、長らくの荒れ地が整備され、「西湖いやしの里 根場」がオープン、富士山周辺の観光施設のひとつとして復活したのである。
このとんとん拍子の流れは、小泉政権下で開始された「ビジット・ジャパン・キャンペーン」(2003年~)と足並みが揃ったおかげでもあるだろう。現在は当たり前になったインバウンド観光戦略、外国向けの「ディスカバー・ジャパン」事業は、まさに地中に埋まった樹海の村を「再発見」することになったのだ。
富士山に近い上、関東で唯一の茅葺きの建物群が見られる園内には、多くの外国人観光客が行きかっていた。おそらく彼らは、ここが94名もの死者が出た悲劇の地だったことなど、いっさい知らないだろう。当時の私にしても、ネットに流布した「樹海村」伝説を調べたことで、初めて得られた知識だったのだから。
東京へ帰る前、西湖民宿村にたたずむ災害慰霊碑に手を合わせる。樹海にあるという謎の「こわい村」。その都市伝説の調査は、期せずして実在する悲劇の村へと繋がった。
私にとっての隠された日本を、再発見する旅となったのである。
(敬称略)
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