映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」感想〜誤読の余地のないお説教映画〜
鑑賞を終えてまず第一に思ったのが、「前作と違い誤読する余地のない映画だな」と思ったのと、完全にお説教モードに入っていると感じたことでしょうか。
前作と今作と 「ジョーカー」のもつ意味
前作では「どこまでが妄想で現実なのか」、そして物自体が「本当の物語だったのか、それともジョーカーが作った話なのか」というような解釈の余地のある映画でした。
それが面白かったし、それゆえに反響が大きかった映画だと思うのですが 悪影響も大いにありました。
この映画以降、無敵の人と呼ばれていた犯罪者たちが「ジョーカー」と呼ばれたり、弱者を虐げれば暴発するぞと脅す意味でも「ジョーカー」という言葉が使われるようになったと私は感じています。
今作はその反響へのアンサーというか、「現実を見ろ」という強いメッセージ性と社会批判があると思います。そして、それゆえ賛否両論の感想のようですが、さもありなん、な出来です。
ここからネタバレありの感想になります。
説明過多
まず、物語冒頭から今作を戯画化したアニメ から始まり、所々にミュージカルが挿入されます。
これらは全て妄想や状況、心理状態などを端的に説明してくれてます。そこと現実とははっきり分けられています。つまり、説明過多、なんです。
私は古い洋楽は全然わからないのですが、ミュージカルシーンで使われている楽曲の歌詞や、背景など詳しい人にとってはなおのこと分かりやすい映画なんだろうと思います。
浮かれてないで、現実を見ろ
アーサーが 収監されてるのは精神病棟(兼刑務所?)であり、彼はジョーカーとしてではなく面白くない元コメディアンの囚人として扱われてます。
そして、裁判と前作の登場人物からの証言を通じて「お前はジョーカーじゃなくて アーサーだろう」と何度も現実を強く突きつけられます。
さらには強い絆で結ばれていたはずの母からも否定されていたことを知り、最終的には現実に押しつぶされて「ジョーカーはいないし、自分が誰かも分からない」とジョーカーであることから降ります。
どん底に落ち、ジョーカーなんていないと現実を受け入れたことで自分の理想の人、ハーレイからも見捨てられます。
そして、前作の象徴的なシーン、階段から踊りながら降り狂気に落ちていく様を象徴するシーンの逆。アーサーとして階段を上るシーンがあります。
そして、ハーレイから拒絶され、刑務所へと戻っていきます。
怒涛の転落なんですけど、前作と違ってまったく同情が湧きませんでした笑。助けの手は何度も差し伸べられていたのに、アーサーはすべてはねのけたのです。
衝撃的だけど予想されたオチ
結末は割と衝撃的なものでしたが、これ以外はありえないというようなラストでした。
この結末はさすがに予想はできませんでしたが、これに近いラストにしかなりえないという確信はありましたね。
もしくはそう思うように誘導されてたのかもしれません。
でも、漫☆画太郎先生のトラックに轢かれるお約束オチみたいでちょっと笑いそうになりました。
感じたメッセージ性としては「罪に対しては報いを受けるものべきである」 「現実は直視すべきである」「社会の敵を気取って人気を集めてもそれはその人自身に向いたものではない」「前作を観てジョーカーを気取ったニセモノは恥じてどうぞ」「支持者も同類、同罪である」と言ったところでしょうか。
ところで、なぜミュージカル 仕立てなのかと思ったのですが 、おそらく強すぎるメッセージ性と解釈の余地のなさによって普通に作るとあまりにもエンタメ性がなくなるから、と私は思いました。
わかりやすくメッセージ性を込めるためには説明が多くいるのですが、そのために歌とお芝居が必要だったのかもしれません。
総評
映画って自分なりの解釈とか、意味を見出すのが醍醐味の一つだと思うのですが、こうもはっきり誘導されると「まるで初期ドラクエじゃん」としか思えませんでした(一本道すぎて)
私の感想としては、説教臭さと説明過多のせいで、純粋な映画体験としては、あんまり面白くないなあという感想です。
あと、SNSでよくある「するどい解釈」大喜利なんかとも非常に相性が悪い映画で、それも賛否(主に非)の原因の一つかもしれません。
結論:個人的には前作のほうが好みでした。
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