『第六行仏威儀』第二十四段②〔火焔(たった今)と諸仏(自分という刷り込みがなくなった人)は親密であるか〕

〔『正法眼蔵』原文〕
 しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。

又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。

「三世諸仏」の「在火焔裏」の化儀ケギ、ならふべし。

火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。

依正一如エショウイチニョなるか、依報正報エホウショウホウあるか。

依正同条なるか、依正同隔なるか。

「転大法輪」は転自転機あるべし。

展事投機なり、転法・法転あるべし。

すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、
転法輪の法輪あるべし、転三世の法輪あるべし。

〔抄私訳〕
「しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。「三世諸仏」の「在火焔裏」の化儀、ならふべし」とある。

本当に、「諸仏の火焔」と「諸類の火焔」は同じでないことは、明らかである。「諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし」とは、「諸類」は「火焔」があるとも言うことができ、「諸類」を「火焔」と取ることができるから「なきか」とも言うことができるのである。「諸類」に、「諸仏の火焔」は等しくないからである。

「火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正一如なるか、依報正報あるか。依正同条なるか、依正同隔なるか。「転大法輪」は転自転機あるべし。展事投機なり、転法・法転あるべし」とある。

「火焔」(たった今)と「諸仏」(自分という刷り込みから自由になった人)は親密な義がある。「火焔」はすなわち「諸仏」、「諸仏」はすなわち「火焔」であるから、また「転疎なる」(かえって疎い)道理があるのである。「火焔」は「火焔」であり、「諸仏」は「諸仏」であるから、蔵身・露角・三界は、ただ心の大きな隔たりなどというのと同じ意である。

また、「依正一如なるか」の言葉は、以下で「か」「か」と書かれるのは、例のいずれの義もあるということである。

「すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転火輪の法輪あるべし、転諸仏の法輪あるべし、転法輪の法輪あるべし、転三世の法輪あるべし」とある。

これは、「尽大地」「尽火焔」の道理の上で、「転火輪」「転諸仏の法輪」「転三世の法輪あるべし」というのである。この上で、転生死・転迷悟・転衆生等の「法輪」があるのである。

                            合掌
                               

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