『第六行仏威儀』第二十七段 〔火焔(たった今)の中で大法輪を転じるとは、行仏威儀(たった今の身心の在り様)を行じることである〕
〔『正法眼蔵』原文〕
雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉に参学すべし。
玄砂の道ドウに混乱することなかれ。
雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。
火焔の三世諸仏を在裏せしむる、一無尽法界・二無尽法界
の周遍のみにあらず。一微塵・二微塵の通達のみにあらず。
転大法輪を量として、大小広狹の量に擬することなかれ。
転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず。
〔抄私訳〕
「雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉に参学すべし。
玄砂の道ドウに混乱することなかれ」とある。
雪峰の「三世の諸仏は火焔(たった今)の中に在って大法輪を転ず」という言葉は不足していて、言うべきことを言い尽くしていない言葉ではないというのである。つまるところ、雪峰の言葉に、残る理がないところを表す意味合いである。だから、彼の言葉を「かならず委悉に参学すべし」と言うのである。
「雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり」とある。
雪峰と仏と皮肉骨髄(全身心)が通じる理は、
本当に「仏威儀」(たった今の在り様)を威儀する(行ずる)」道理なのである。
「火焔の三世諸仏を在裏せしむる」とは、広狹多少の論を超越するのであるから、これは彼と同じものとして言うのではない。
だから「大小広狹の量に擬することなかれ」と言うのである。
「転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず」とある。
「転大法輪」(たった今の在り様を転じる)のすがたは、自他のためではなく、
説も聴に対するものではなく、「転法輪」の独立のすがたである。
〔『正法眼蔵』〕私訳〕
雪峰の「三世の諸仏(たった今に住む人)は火焔(たった今)の中で、
大法輪(たった今の在り様)を転ずる」ということを、
必ず詳しく学ぶべきである。
(雪峰の在火焔裏、転大法輪、かならず委悉に参学すべし。)
玄砂の「三世の諸仏は説法(たった今を説く)するに、
聴法(たった今を聴く)す」という言葉と混同してはならない。
(玄砂の道に混乱することなかれ。)
雪峰の言葉をわが物とするとは、仏威儀(たった今の在り様)を
威儀する(行ずる)ことである(行仏威儀を行じることである)。
(雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。)
火焔(たった今)が三世の諸仏(たった今に住んでいる人)をその中に在らしめるのは、
火焔(たった今)は一無限世界(マクロコスモス)、一無限世界に遍く行き渡るだけではない。
一微塵(ミクロコスモス)、一微塵に通達するだけでもないのである。
(火焔の三世諸仏を在裏せしむる、
一無尽法界、二無尽法界の周遍のみにあらず。一微塵二微塵の通達のみにあらず。)
ただ仏の法(たった今)を転じることを量りとし、
大小広狹の量りにたとえてはならない。
(転大法輪を量として、大小広狹の量に擬することなかれ。)
仏の法(たった今)を転じることは、自分の為でも他者の為でもなく、
説く為でも聴く為でもないのである。
(転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず。)
合掌
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