『第六行仏威儀』第二十五段〔たった今(火焔)はたった今に住んでいる人(諸仏)がたった今の在り様を他の状態に変化させる(転大法輪する)道場である〕
〔『正法眼蔵』原文〕
しかあればすなはち、火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり。
これを界量、時量、人量ニンリョウ、凡聖量ボンショウ等をもて測量シキリョウするは、
あたらざるなり。
これらの量に量ぜられざれば、
すなはち「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」なり。
すでに三世諸仏といふ、これ量を超越チョウオツせるなり。
三世諸仏、転法輪道場なるがゆゑに火焔あるなり。
火焔あるがゆゑに諸仏の道場あるなり。
〔抄私訳〕
確かに「火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり」と言えば、
「道場」の言葉が特別なもののように思われるが、前に言ったように、
「諸仏」(思いの中に住んでおらず、たった今に住んでいる人)と「火焔」(たった今)と「法輪」(たった今の在り様)を転ずる(他の状態に変化させる)ことは、
それぞれ別のものではないのである。
ただ同じものであるから、
「火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり」と言われるのである。
《傍注:菩提樹(釈尊がその前で坐禅し悟った樹)を道場樹と言い、
仏の説法する所をみな道場と言うのである。》
「これを界量、時量、人量、凡聖量等をもて測量するは、
あたらざるなり」とある。
いかにもその趣旨があるものである。どうして凡夫の見方で「行仏威儀」(たった今に住んでいる人の在り様)の「量」を推し量ることができようか、
とてもできないことである。
「三世諸仏、転法輪道場なるがゆゑに火焔あるなり。
火焔あるがゆゑに諸仏の道場あるなり」とある。
前に言ったように、「三世諸仏」「転法輪」「火焔」の三種は、まったくおのおの別にする道理がないところを、
あれこれ入れ替えて何度も説かれるのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
そうであるから、火焔(たった今)は諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人)が大法輪(たった今の在り様)を転ずる(他の状態に変化させる)大道場である。
(しかあればすなはち、火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり。)
これを界量(世界のはかり)、時量(時間のはかり)、人量ニンリョウ(人のはかり)、
凡聖量(凡夫聖人のはかり)等で推し測っても当たらないのである。
(これを界量、時量、人量、凡聖量等をもて測量するは、あたらざるなり。)
これらの量ハカりで量ることができないから、
三世の諸仏(たった今に住んでいる人)は火焔(たった今)の中で大法輪(たった今の在り様)を転ずる(他の状態に変化させる)のである。
(これらの量に量ぜられざれば、すなはち三世諸仏、在火焔裏、転大法輪なり。)
すでに三世の諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人)と言うのであるから、一切の量りを超越しているのである。
(すでに三世諸仏といふ、これ量を超越せるなり。)
三世の諸仏が法輪(たった今の在り様)を転がす(他の状態に変化させる)道場であるから、火焔(たった今)があるのである。
(三世諸仏、転法輪道場なるがゆゑに火焔あるなり。)
火焔(たった今)があるから、
諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人)の道場があるのである。
(火焔あるがゆゑに諸仏の道場あるなり。)
〔火焔は即ち諸仏で、両者は別物ではないのである。〕
合掌
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