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こんにちは。ショーです。
何かを犠牲にする。
それは人によって色々変わってくるだろう。
「なんのために何を犠牲に」するか。
こういう状況に直面した時、人は相当考え込むし、苦しむ。
それをすぐに決断できる人は本当に羨ましいなと思うが、人それぞれ自分の必要とする時間とペースがある。
ただ一つ言えるのは、本気で考えれば、こういう時間でも成長はすごくできる。
むしろこういう時間こそ。
自分はサッカーをやることで、たくさんのことを犠牲にしてきたと思う。
友達と遊ぶ時間、家族との旅行の時間、人との信頼関係、自分の心そこにある本当の気持ち。など。
多くの人は少なからず、「自分」や「自分の時間」を犠牲にしてきたと思う。
もしかしたら、「ひと(他人)の時間」もそうかもしれない。
ここまでサッカーをやってきて、ふとした瞬間に思うのは、
「もしサッカーをやっていなければ、家族と海外のここに行けてたし、もっと充実した時間を過ごせていたのかも」と思う(それ以外もあるよ)。
やっぱり、特に日本では、どうしても「休みの時間が少ない」。
サッカーをやっていることは自分の決断だが、
サッカーをやっていることで
夏休みは3日から5日だけだったり、年末年始も休みがないことなんて多々ある。
ベルギーやフランスと比べてみると、
「サッカーをやっていても夏のバケーションも楽しめる」
ということは大いにある。
もちろんその背景として、シーズンがいつ始まるのかとかそういうところもあるが、サッカーとともに人生を歩んでいくことがより可能な気がする。
どこか日本では犠牲の精神が昔から残っていて、それがポジティブに表れる時もあれば、そうでない形で浮き彫りになることがある。
高みを目指していく中で、何かを犠牲にすることは当然のことだと思う。
僕だけかもしれないが、「犠牲」という言葉はどうしてもネガティブなイメージが残ってしまう。
でも本来の意味を考えれば、「自分自身(の何か)を捧げる」というような意味を持つはず。
それを考えたときに、犠牲のあり方が、もっと自由であっても良いのではないかと思う。特に自分に言い聞かせたい。
サッカーで言えば、チームの中での年齢、学年、先発メンバーかどうかなどの自身の立ち位置関係なしに、各々が少しずつ何かをそのチームに捧げる。
犠牲の量や質はひとと比べるものでもないが、最高学年でスタメンでキャプテンみたいな人が、一番何かを犠牲にしている組織の方が、人はついてくる。犠牲の内容や定義は各々に任せるが、人がついてこないような社会にはなってほしくないし、そのためにできることを探したい。
サッカーのピッチの上が、「自分の大切なものを捧げることのできる、みんなにとっての大切な場所」になれば良いな。
<Post Scriptum>
間違いなく、サッカーをやっていたからこそ、出逢えた人、経験できたことがある。
自分自身もサッカーのために何かを捧げたことで、サッカーから与えてもらった。
犠牲という言葉だけでなく、物事をもっとポジティブに捉えていきたいね。
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