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「理不尽に耐えること」は学校教育の範疇か?

梅雨の時期になり、雨の日が増えてきました。特にここ数年は突然のゲリラ豪雨に襲われることがあります。

私自身は自動車通勤なのでそこまで影響はない(と言っても前方視界が塞がれて怖いことがありますが)のですが、生徒は自転車通学も多く朝からずぶ濡れで学校に来るケースがあります。

着替えも無いため、早退をするように促した

先日、ゲリラ豪雨が降ったため、生徒がずぶ濡れで学校へ来ていました。

体操着も持ってきておらず、幸いなことにその日は午前中授業だったため、1限目が始まる前に早退するように話をしました。

翌日から定期試験であったこともあり、エアコンが効いた部屋で十分に乾燥させることができない状態で半日過ごして、体調不良になるリスクを負うぐらいならば、早退した方が良いだろうという合理的判断でした。

このことに関して、教員間で話題にしたところ、タオルやジャージなどを渡して残すべきだと考える人の割合が多いことに驚きました。

学校教育の中の理不尽

この事自体はそれぞれの教育観や生徒の特性や体調など、個別の事情に応じて判断が変わるとは思います。

今回は当人も早退を望んでいたこともあるため、もしずぶ濡れの状態で不十分な着替えを渡して一日を過ごさせるならば非常に理不尽だと感じます。

また、普段は制服をきちんと着る指導を行っているにも関わらず、そうしたときはジャージを許可する(そもそも許可という表現も…)というのも個人的には疑問です。

この件だけでなく、髪型や制服など校則と生徒指導から板書ノート提出など教科指導に至るまで学校文化には理不尽が溢れています。

「理不尽に耐える経験をしないと社会に出たときに困る」という欺瞞

こうした理不尽に対し、疑問の声を上げると決まって以下のような答えが返ってきます。

  • 「実社会は理不尽に溢れている」

  • 「理不尽に耐える経験をしないと社会に出たときに困る」

  • 「自分はその経験で今、社会の理不尽に耐えられている」

こうした考え方をする人を否定はしません。一面では正しい部分もあるでしょうし、処世術としては間違っていない点も多いのでしょう。

しかし、こんな回答をする大人になりたいと思える若者はいるでしょうか。

理不尽な社会で耐えられる立派な大人を目指したい、と思うでしょうか。

私はこのような考え方こそが学校や教育だけでなく、今日の日本社会が抱える問題点であり閉塞感の原因であるように感じています。

大人が示すべきは、理不尽を見つけたらそれを一つでも改善しようとする姿勢や、理不尽に立ち向かい自分だけでなく後進のために道を作る行動力ではないでしょうか。

高等学校は「高度な普通教育及び専門教育」を施す場

そもそも、高等学校は「高度な普通教育及び専門教育」を行う場であり、理不尽耐性を養う場ではありません。

以下は学校教育法からの引用です。

第五十一条 高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。
三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い社会の発展に寄与する態度を養うこと。

学校教育法 第五十一条

太字部分を読むと、どうやら高等学校は人間性や個性、教養、知識、技術、批判力などを育成する、としています。

ここから理不尽耐性を養うことをこの中に入れるか否か、フラットに読む限りはその解釈は無理筋ではないでしょうか。

そして、仮にその解釈が可能だとしても、理不尽による負の連鎖を断ち切るのは大人の責任ではないか、と思うのです。


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