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大阪大学での2次試験中のトラブルに関する雑感と違和感
2次試験でのトラブル
つい先日、国公立大学の前期日程が終了しました。
国公立大学の2次試験は2月25、26日に統一日程として毎年実施されています。これは土日を問わず固定されたスケジュールとなっています。
今年も前期が終了し、受験生や受験業界の人もほっと一息ついている時期かと思います。
(もちろんこれから国公立の後期があるので、志望者が手を止めることはできませんが)
さて、この2次試験ではたびたびトラブルが発生します。年によっては重大な事件になるケースもあり、波乱の1日となっています。
10年以上前の事件ですが、私が鮮明に覚えているのが京都大学の試験中のネット書き込み事件です。
今回はそこまでの事件性はありませんが、トラブルが発生したようです。
大阪大学でのトラブル
今年は大阪大学でトラブルが発生したようです。
大阪大学の入学試験中に、試験官たちが大きな声で笑うなど談笑していたとする情報提供があり、受験生から“抗議の声”が上がっている。大学側は業務上必要な会話だったと主張している。
これに対し大阪大学の関係者は以下のように回答したようです。
関西テレビの取材に対し、大阪大学は「受験生からの質問について対応を協議するため、2人の試験官が壇上で話したが、業務上必要な会話で、大声を出したり、笑ったりはしていない」と説明している。
大阪大学の関係者が試験中に受験生が聞こえるレベルの音量で会話をしていたのは事実のようです。
これに関しては試験監督をする立場から言えば、質問に対する対応の相談等は行う可能性は十分にあります。
とはいえ受験生がうるさいと感じる部分があるとすれば謝罪をすべきですし、大阪大学も再試験などは行わないが、謝罪は行っているようです。
受験生側に対する違和感
この件に関しては確かに大阪大学の試験監督者に落ち度があることは否定できません。
受験生は集中していますし、静かな会場においては小声での会話であっても耳障りになる可能性は十分にあります。
今回の試験監督に関して、配慮を欠いた行動があったことは事実でしょう。
一方で受験生、特にこの被害を訴える受験生の言葉には違和感があります。
この受験生の主張そのものではなく、以下の部分です。
この抗議に参加した受験生の1人は「公平性が保たれておらず、試験として成り立っていない」と話し、謝罪と再試験の実施を大阪大学に求めている。
(中略)
関西テレビの取材に応じた受験生は「人生がかかった大切な試験だったから本当に残念だ」と話す。
もちろん試験中に騒がしかったことに関しての不快感は理解できるし、それに関してクレームの一つも言いたくなる気持ちは共感できるものです。
しかし「人生がかかった大切な試験」というのはあまりにも受験に傾倒し過ぎた価値観です。
確かに受験先や合否で人生が変化するのは事実ですが、合否に人生がかかっているというのはあまりにも視野狭窄でしょう。
さらに言えば、どんな試験であっても完全に公平性を担保するようなことは不可能であり、与えられた状況の中でパフォーマンスを発揮するしかないのが現実です。
公平な環境がいつでも、どんなときでも確保されると信じるのはあまりにも幼稚な妄想でしかありません。
こうした価値観で受験を捉えている高校生本人もそうですが、そうした価値観を育てるに至った周囲の大人の教育方針には不安を感じてしまいます。
大学教官が試験監督をする違和感
この問題の試験監督がどの程度うるさかったのかは不明ですが、こうした試験監督業務に関する問題の原因には日本の国立大学の異常性が起因しています。
そもそも多くの試験監督は監督業務に対して遣り甲斐を見出していません。もちろん監督業務自体は正直なところ「退屈」な業務内容で、特に個人の能力や特性を必要とするものではないからです。
言い換えれば「誰でも構わない」業務と言えます。
(これは監督業務自体は極めて重要であることを否定するものではない)
ところがこの監督業務に誰がついているかというと、大学の教官、教授や准教授なのです。
彼らは研究と教育が主たる業務であり、監督のような事務作業は本務ではありません。シンプルに考えて、彼らのような知的能力の高い人材を監督業務のような単純作業に振り分けるのは極めて非効率です。
Xなどではよく話題になりますが、筑波大学で落合陽一、京都大学で山中伸弥を監督として見た、というのは定番の受験ネタです。
ノーベル賞受賞研究者を試験監督とする業務の割り振りに合理性があるとは私には到底思えないのです。
(加えて言えば、大学教授になるような人間には監督業務などがむしろ苦手なタイプも多いように感じます)
日本の教育界が抱える問題の縮図
今回のこのトラブルはそうした過度な公平神話と受験偏重の価値観が蔓延する中等教育と、大学教授のような人材を十分に活用できていない高等教育の問題が同時に表出したような印象を受けています。
ここで何かを書いて変わるようなものではありません。根本的な体質の問題でもあり、解決するのはなかなかに困難な道のりでしょう。
ただ、正直な個人の感想として、このトラブルが日本の教育の問題の縮図となっているように感じるのです。