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【題未定】消えかけた灯火を繋いで:熊本大学医学部の知られざる歴史【エッセイ】

 先日、散歩中に熊本大学医学部の前身である私立熊本医学校創設の地を見かけたのでnoteに投稿したところ、反応を頂いた。

私自身も以前から熊本大学医学部の創設の歴史の複雑さには興味を持っていたため、ここで改めて熊本大学医学部の歴史に関してまとめたいと思いこの記事を書くことにする。

 ちなみに私の出身校である熊本大学理学部は同じ大学ではあるが、その歴史は大きく異なるため同じ大学、OBとして括ることはできない。したがってあくまでも歴史に興味ある一学徒としてまとめていきたい。

 熊本大学医学部の歴史は肥後細川藩の医学寮「再春館」がその起源であると言われている。当然ながらこの名前の製薬会社は全く無関係である。創立は宝暦6年(1756年)と言われている。その後廃藩置県を期に明治4年(1871年)「官立医学所兼病院(通称古城医学校)」と改称する。

 ところが明治21年(1888年)に勅令により県立医学校が廃止となる。そのため隈本藩の侍医であった高岡元真らが設立した「春雨社」が母体となって「春雨黌しゅんうこう」が設立され、県立医学校の学生を受け入れて医学教育を行っていた。

 この「春雨黌」が熊本市内の済々黌、熊本文学館、熊本法律学校を統合し明治24年(1891年)に「私立九州学院」を設立し、「春雨黌」は「私立九州学院医学部」となる。

 ところがこの「私立九州学院」も廃校の危機になり、医学部は閉鎖となる。その時に熊本県の支援を受けて明治29年(1896年)後継として設立されたのが「私立熊本医学校」であり、これこそが現在の熊本大学の医学部の直接の前身となる。(ちなみにこの時に「済々黌」は熊本県尋常中学校済々黌として分離独立し、これが現在の「熊本県立済々黌高等学校」となる)

 その後明治37年(1904年)に「私立熊本医学専門学校」に昇格、大正10年(1921年)には県立に移管され「熊本県立医学専門学校」と称することになる。大正11年(1922年)には大学令の発令により「熊本医科大学」となるも昭和4年(1929年)4月に「熊本県立医科大学」と改称する。同年5月には官立移管により「熊本医科大学」とさらに改称することになる。そして昭和24年(1949年)国立大学設置法により、新制熊本大学が発足。ここで熊本大学医学部が誕生し、現在に至る、ということになる。現在も旧六医科大(千葉、新潟、金沢、岡山、長崎、熊本)と称されるのはこの時点において大学に昇格した医学専門学校のこと指している。

 熊本の医学教育の歴史は古く、肥後細川藩の時代から脈々と受け継がれている長い伝統を誇っている。一方、歴史や政治体制の変化で何度もその火が消えかけることになり、その度に運営母体を変え、名前を変えて生き続けてきたという波乱の歴史を経験してきており、非常に複雑な経緯を抱えているのも事実だ。

 実際、現在の熊本大学の母体であり、法、文、理学部の前身であった第五高等学校の医学部は長崎に設置されており、五高医学部はその後「長崎医学専門学校」から現在の長崎大学医学部になっており、非常に捻じれた関係性が見て取れる。(同様のケースで京都大学の前身、第三高等学校の医学部が岡山大学の医学部になった経緯にも似ている)

 大学、高等教育機関の歴史を紐解くことはその当時の歴史的背景を読み解く非常に大きなヒントになる。特に「熊本大学医学部」はそうした歴史の流れに翻弄されながらも、力強くその伝統を生きながらえさせてきたように見える。同大学に対する熊本市民、県民の厚い信頼はこうした歴史と、その歴史を支えてきた先人たちの目に見えぬ偉業にあるのかもしれない。

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