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【題未定】バカは大学に行くな?──的外れな大学批判の正体【エッセイ】
大学無償化などの高等教育の広がりに関する記事や書き込みを行うと、必ず一定数の批判を受ける。「Fラン大学への補助は税金の無駄」、「旧帝大クラスの大学以外はつぶしてしまえ」、「バカは大学に行くな」といった具合の罵詈雑言も含む批判である。
こうした言い分に全く耳を傾ける価値はないかと言えばそうではない。確かにレジャーランドと化した大学(実際には最近の学生はかつての学生のように遊んではないのだが)や向学心が一切無い学生に血税が使われることを苦々しく思う人の感情は分からないではない。しかしこれらは現代の高等教育事情を無視した、大きく的を外した批判でもあるのも事実だ。
こうした批判をする人たちは総じて医者や旧帝大を出た人などいわゆるエリート層に多い。彼らの目線から見れば勉強ができない、努力ができない人間が大学に行くこと自体が目障りというだけでなく、コストをかける価値がない、といったところだろう。
多くのエリート達は勘違いしているが、現代における大学の価値づけはかつてのそれとはまったく異なっている。昔から言われてきた、大学は研究機関であり、教員は研究者、そして学生は少数のエリートであるというフンボルト的な大学観から、クラーク・カーが唱えた「マルチバーシティ」へと変質している。これは大学は教育・研究・サービスと多機能化し、社会へ貢献するための寄り合い所帯であるという考え方だ。地域共生や生涯教育などの考え方はまさにこの代表例と言えるだろう。一部の大学を除いて、日本における高等教育の方針は2000年代初頭からその方向へすでに舵を切っている。
これを端的に示すのが国立大学の法人化、大学院大学の設置、指定国立大学法人化や国際卓越研究大学の選定、「地域・特色・世界」の3つの枠組の設置などの各種改革である。要はフンボルト的エリート養成機関と地域の拠点となるマルチバーシティを区別する政策がこの四半世紀にわたって進められてきたのだ。
エリートたちの多くは古典的なフンボルト的大学観しか認識しておらず、彼らの母校もまたフンボルト的大学である。ところが彼らの考える大学と、大学進学率が6割になろうという時代に多くの市民が通う大学は全く別物なのだ。彼らの古典的大学観による大学批判が的外れなのはこのためだ。
現代日本において、多くの高等教育機関はもはやかつてのようなボーイズクラブではない。エリート層の社交場でもなければ、先端研究の最前線でもない。地域教育の拠点であり、それは市民センターと教育機関を兼ねた地域のハブとなって人材育成を行う場所なのである。そういった場所に対して「補助は税金の無駄」、「つぶしてしまえ」、「バカは行くな」という批判がいかに的を外しているかは火を見るよりも明らかだ。
残念ながら人間は幼少期から青年期に培った固定観念から逃れるのは難しいという。おそらくエリート達からの的外れな批判が10年以上続くのは間違いないだろう。「マルチバーシティ」という概念をいかに広めるか、理解を促すか、文科省の尽力は言うまでもないが現場教員がこの概念をきちんと理解、消化することも求められているのではないだろうか。