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教育現場のDX化に対応できない人達はDX化以外にも対応できていない
教育現場はここ数年でDX化が急速に進みました。
その代表的なものがGIGAスクールによる端末配布です。その結果、端末を利用した授業が大きく普及し、授業のやり方や構成が大きく変化しました。
しかし、一方でそうした変化についていけない人もいるようです。
この記事では、DXに対応できない高齢の国語の教員の話が話題になっています。
彼女は59歳で「定年を前に全くわからないことに対処しなければいけなくなった彼女の嘆きは大きい。」という表現で語られています。
DX化に対応できない人はそもそも努力をできない人という印象
厳しい言い方ですが、ここ数年のDX化に最低限のレベルで対応できない現場教員に関しては、努力をすることが苦手な人でしょう。
そして、そうした人は他人に物を教えるのに適性があるとは言い難いという印象を個人的に抱いています。
なぜならば、こうしたICT機器の普及はここ最近に突然始まったわけではないからです。
この30年近くの中で徐々に進んできた動きなのです。
Windows95の発表はその名の通り1995年、あのお祭り騒ぎは28年も前のことになります。
当時、拮抗していたMacやPC98を引き離すようにDOS/V機が普及し、日本中でパソコンが使われるようになりました。
その後10年ほどの間に書類の作成やメール、インターネットをPCで利用するスタイルは市民権を得てきました。
そして2008年のiPhone3Gの発売、2011年ごろからの急速なスマートフォンの普及により、ICT機器を利用する生活は間違いなく生活の細部に入り込むようになったと言えます。
教育においてもそうしたものが導入する方向にある、海外ではすでに高い導入率である、といったことは知られていたはずです。
にもかかわらず、この流れの中でPCやタブレット、スマホの利用を避けてきた人は明らかに情報を取捨選択する能力が欠如しており、学ぶ姿勢に富んでいるとは到底言えないでしょう。
実は対応できていないのはDX化ではない
端末が導入されれば授業の受け方も、指導の方法も変化します。
ところが、リンク先の記事には以下のようにあります。
若手の教員たちは、iPadで調べものをさせて、iPadで子どもたちに資料を作らせたりしはじめた。しかし、幸子さんは担当教科が古典だったので、従来通り、教科書の本文をノートに写させて、辞書で単語を調べさせ、文法事項や大切な現代語訳をホワイトボードに板書するという授業を行っていた。
「板書を取らずに、私が書いたものをiPadで写真に撮る生徒が続出しはじめたんです。本文をノートに写すのも、写真を撮ってそこに書きこんでいいかと聞かれるようになりました。辞書ももう誰も使っていないって言うんです」
「紙の辞書なんてゴミ!」新聞、テレビが報じない教育現場DX化の残念すぎる実態。
私は古文の学習に関しては門外漢ですが、受験の経験や卒業生の話の中でも一番時間を取られ、効果に懐疑的なのが本文をノートに写す行為です。
隙間を空けて書き込みをさせたいのであれば本文を行間を空けて印刷したものを配布すればよいのではないでしょうか。
さらに、ICTでデータを送信し、タブレットで編集できるようにするのも効果的でしょう。
「板書を取らずに、私が書いたものをiPadで写真に撮る生徒が続出しはじめたんです。本文をノートに写すのも、写真を撮ってそこに書きこんでいいかと聞かれるようになりました。辞書ももう誰も使っていないって言うんです」
自分の手を使って書き写すことで、古文特有の言い回しが身につくと考えていた幸子さんは、全てにNGを出した。
「紙の辞書なんてゴミ!」新聞、テレビが報じない教育現場DX化の残念すぎる実態。
授業中に板書を写す場合、基本的にはそれは「単純作業」であって頭を使っていることはほとんどありません。
実際に手を動かすことが学習にとって重要なのは理解できますが、それはノートを写したり、写経することではないのです。問題を演習したり、考えをまとめたりするときに行うものです。
アウトプットとインプットを使い分けた学習を意識していないのです。
記事の後半も写真を撮ることや調べることに関しての話が出ていますが、写真を撮って要点だけをまとめる方が板書を丸写しするよりも効果的ですし、調べてわかるような知識問題を授業の問いにすることが間違っています。
正直な話、この方の授業や学習は苦労や苦痛を我慢することそのものに価値を感じているだけではないでしょうか。
そして、それをアナログな時代には代替性の低さから生徒に強制することができたのでしょう。
しかし、デジタル化することでそうした強制力が落ち、時代遅れの授業スタイルが露呈しただけなのです。
そう考えると、対応できていないのはDX化そのものだけではなく、授業スタイルやDXに適応した若者や彼らに合わせた学習法に対応できていないと言えそうです。
老人教員への批判ではない
先日、世代交代や強制的な高齢者の退場に関しての記事を書きました。
今回の事例も同様に、現実に対応できない人達をいかに世代交代していくか、ということが大きな問題となっています。
しかし、これは高齢の教員を排除すべき、というわけではないのです。
高齢の教員の中には、進んでICTを取り入れたり、授業スタイルを変化させて講義型一辺倒から変化させたり、授業中に活動を上手く取り入れたりしている人もいます。
一方で私と同年代ぐらいの人でも、DXやICTを全否定し古典的な授業スタイルに固執する人もいます。(そしてそうした人の講義型授業は大して面白くもないというおまけつきです)
時代に合わせて変化しつつ、柔軟に対応する力が教員には求められており、そうした能力は一概に年齢や年代には寄らないようです。
世の中の多くの職業の中でも、最も若い人を対象にしたビジネスが教育です。
そう考えると、むしろ最も柔軟な対応力が必要な職業なのではないでしょうか。