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宿題忘れに「指導」は必要ない
小さいころ、宿題を忘れて学校の先生に叱られたという人は少なくないように思います。
ドラえもんでのび太君がバケツを持って廊下に立たされているシーンは昭和の代表的な宿題忘れの光景でしょう。
提出物忘れの指導
学校では提出物の期限に関して注意や指導を行うことがあります。
外部機関への申し込みや、公的書類、奨学金など期限が過ぎてしまった場合に取り返しがつかない書類を取り扱うことがあるからです。
書類の種類によっては、かなり厳しく注意をすることもあります。
在学中に大人になる高校生の場合は、本人がペナルティを受けることもあるためです。
(こうした指導が必要か否か、という議論は脇に置いて)
ところで、ここで問題になるのは宿題が提出物に含まれるか、ということです。
宿題≠提出物
私自身の中では、宿題は提出物には含まれないもの、と定義しています。
なぜならば、宿題は書類の記入や作業を行うだけで提出できるものではないからです。
宿題は自分で考え、解くことが必要不可欠です。調べたり、誰かに聞いて解答することもあるでしょう。
そして、その間違いを復習し自分の学力に変えるという使い方をする必要があります。
つまり、提出物はその成果自体を議論する必要はなく、提出することを目的としています。
それに対し、宿題は提出をすることは目的ではなく、あくまで自分の学力を高めるツールとして活用することが目的なのです。
従って、宿題と提出物は一見すると教員に一定の期限で渡すという類似性を持っているように見えますが、その本質は全く異なるものと言えます。
宿題の遅延や未提出を叱責する行為
文頭に書いたような、宿題の遅延や未提出に対しての叱責という場面は学校という場では頻繁に見かける光景です。
しかし、それは何一つ学力に寄与することはありません。
なぜならば、叱責を受けた生徒は宿題を提出するために、何も考えずに答えを写したり、でたらめで埋めて帳尻合わせをするようになるからです。
提出すること自体が目的化してしまい、宿題を出題した時に教員側が想定したであろう、授業の復習確認や学力の向上という目的からは遠く離れてしまいます。
教員からの叱責を恐れた生徒は、ただひたすらに提出することだけに血道を上げるでしょう。
あるいは、無気力に振舞うか、登校しなくなるかです。
宿題忘れの「指導」ではなく「支援」
宿題を忘れる生徒の場合、そこには理由が存在します。
家では集中できない、家庭が煩くて学習環境にない、宿題が難しすぎる、あるいは逆に簡単すぎてやる意味がない、など様々な理由があります。
それらを解決することが、学力を向上させる目的を達成するための最もシンプルな方法です。
そしてそこに必要なのは叱責や懲罰といった「指導」ではなく、学習に対する阻害要因を取り除く「支援」でしょう。
(宿題そのものの是非に関して、本記事では触れません。ただ、小中高と学齢によって宿題の効果には差があるようです。)
「主体的・対話的で深い学び」への志向
新学習指導要領が謳う「主体的・対話的で深い学び」の本質もこの姿勢にあるのだと考えています。
アクティブ・ラーニングの流行から語られていた、Teacher(教師)の役割がInstructor(指導者)からFacilitator(進行役・助言者)への移行ということです。
上から教え導く檀上の賢人から、共に歩み解決する協力者へと教員の求められる役割が変化しています。
学ぶためのコンテンツがそこら中に溢れている現代社会だからこそ、「指導」ではなく「支援」をベースにした教育を考える必要があるように思います。