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「板書を写したノートの提出」に見る、非効率的な無駄や形式を重んじる文化

学校文化の中には、令和を迎えた現代社会では忘れ去られたような文化がいまだに現存しています。

生活指導はその典型と言えます。

眉検査、スカートの長さや前髪、後ろ髪の長さ、ルッキズムを体現したかのように他人の容姿にダメ出しをしていきます。

そして、学校で教える教科学習に関してもそうした風習が存在しています。

それが「板書を写したノートの提出」とその評価です。

「板書を写したノートの提出」の表面上の目的

ノート提出の表面上の目的は、授業を聞いていたかを確認するものです。

基本的に、学校の授業は1回しか行われません。

ということは、その授業で書かれた板書を写していた、ということはその授業に出席して授業を聞いていたことになります。

したがって、授業に対して「興味・関心・意欲」などを持っているかという評価基準にするということなのでしょう。あるいは内職を防止しようという意図もあるのかもしれません。

しかし、当然欠点があります。

授業中に聞いていなくとも、友人から借りて書けばよいからです。完成したノートしか確認しない上にアナログノートです。いつ書かれたものかをタイムスタンプで管理してはいないため、不正や後からの改ざんはいくらでも可能です。

つまり、ノートによる授業態度の評価はほとんど意味をなさないことがわかります。

「板書を写したノートの提出」の裏の目的

ではなぜ、そんな不確実で不完全な手法が未だに行われているのでしょうか。

これには教員側が意図しているか否かは別として、裏の目的が存在します。

それは、「生徒の従順さを測る」という目的です。

ノートを提出するためには、教員の言うことを聞き、授業中にノートを写すという行為が必要とされます。

現代においては、教師側が書き込み済PDFを配布したり、写真を撮れば済む話です。

それをあえてノートにアナログで取らせることはほぼ無意味に近い行為であり、労力の無駄使いでしかありません。そして、思考停止する従順さのバロメータとなります。

その典型的な例として、本文を事前に写させる行為がそれにあたります。

行間を空けて本文を丸写しさせる作業はコピーやカメラを使えば時間はその10%以下の時間で済みます。

ノートを取るという行為の意味

本来、ノートを取るという行為は自分の学習を管理するための道具でしかありません。

記憶を補助したり、計算過程を残しておくためのものです。あるいは思いついた発送や思考過程を記録するためのものです。

ICT機器の普及や、それ以前のコピーが広まった段階で板書や本文丸写し苦役の証明は再考する必要があったはずなのです。

ところが、保守的で硬直的な教員が既存の授業スタイルを変えられずに、風習だけが残ったということでしょう。

非効率的な無駄や形式を重んじる文化を捨てよう

学校文化はこうした非効率的な無駄や形式を重んじる文化との親和性が極めて高いようです。

定量的な営業利益と言った目標が少ないため、先行事例の参考を建前に、前例踏襲主義に陥りやすいことも原因なのかもしれません。

そうした文化によって学校や教員は不必要に管理することばかりが肥大化し、目まぐるしく変化する現代社会においては時代から取り残された存在になっています。

あたかも気候変動に耐えられなくなった巨大な肉食爬虫類のように、巨大化した体を持て余しています。

こうした状況において、大きな改革を一気に進めることは困難です。

とりあえずは「板書を写したノートの提出」からスリム化を考えてみてもいいのではないか、と思うのですがどうでしょう。


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