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「ICT教具論」からの脱却
一斉休校からのGIGAスクール前倒し実施により、日本中の小中学校ではすでにICTが導入され、一人一台が実際に実現しました。
しかし、学校における実質的なICTの活用状況は道半ばといった状況のようです。
その原因の一つが根強い「ICT教具論」の存在です。
「ICT教具論」とその欠点
「ICT教具論」はICTの設備や機器の利用に関して、主に授業において教員の管理下で利用しようという考え方です。
これは教員主導型の考え方で、あくまでも従来の教員が中心となった授業や学習のスタイルにICTの便利さや手軽さ、楽しみの部分を入れ込もうというものです。
「ICT教具論」に立った授業者は知識伝達型の一斉授業が前提となります。あくまでもICTは学習者に使用する場面や使い方を教員が許可して使用させるものだからです。
当然学習者の主体性は高まることはないでしょう。さらに、授業者の準備には手間がかかり、しかも学習効果に過度な期待をしがちになります。
その分、研究授業などでは見ごたえのある授業風景となります。特定の活動に特化したアプリを利用して、非常に高度な活動をしているような印象を与えることが可能になります。
「ICT文具論」とは何か
「ICT教具論」と対をなす概念が「ICT文具論」です。
「ICT文具論」では、ICT機器やサービスを現実における文房具と同じように認識しています。鉛筆やノートを利用するのと同じようにタブレットやPCをメモやレポート作成に自由に使用します。
授業における活用も行いますが、特定のアプリを使って活動するのではなく、レポートはタイプしてメール、SNSで連絡、スプレッドシートを共有、ホワイトボートでブレスト、参考資料をWebで閲覧引用などの目的のために活用するというスタイルです。
こちらは学習者の主体的な学びの場面が多く、日常的に繰り返すことでICTスキルが向上し、別の場面や授業外での活動においてもICT活用が自然に発生します。
ICTの利用を管理しない覚悟をもつ
端末を渡すとSNSでトラブルになる、授業時間にブラウジングしてさぼる、別のアプリを立ち上げて遊ぶ、いろいろな不安を教員は生徒に対して感じています。
しかし、これらの問題はICTを活用したことで発生したのでしょうか。
実際にはSNSでなくとも友人関係はトラブルになり、漫画や雑誌を学校に持ってきて、授業中に内職をする、こうしたことはこれまでも学校生活の中で存在していたものです。
決してICTのせいで発生したわけではなく、ICTの関わる形のトラブルに変容したに過ぎません。
端末は筆記具と同じです。ペンとノートで卑猥な絵や差別的な言葉を書いた場合、その原因がペンとノートにないのは自明です。
端末利用を規制するという行為は、ペンとノートを取り上げたり、授業中以外での利用を禁止するのと同じです。そうなれば活字離れするのは必然でしょう。
同様に、利用形態を管理したICTは利用頻度が低下し、結果としてスキルの向上も日常利用もできなくなるでしょう。
「書く」行為は手書きか、タイピングか
今後、というよりもすでに現在も大人の大半は「書く」という行為をPCなどの端末にタイピングで行っています。
今の子供たちが大人になる時代はなおさらそうでしょう。
おそらく手書きの文化は書道などの伝統文化や芸術的行為としての意味合いが強くなるはずです。
(メモやブレストでの電子ペン利用は残ると思いますが)
筆記具、鉛筆、ノートの代替品としてPCやタブレットを使うことを習慣化ささせ、幼いころから定着させることは、「書く」という行為の世代交代に向けての布石であり、次世代への責任でもあるのではないでしょうか。
そうした意味でも、「ICT教具論」からの脱却と「ICT文具論」へのアップデートは、全ての教員に求められているように思います。