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校訓に「自主性」を謳う学校は「主体性」を許容できるか

校訓の中に「自主性」が入っている学校は少なくありません。

当然ながら「自主性」のある生徒を育てたいという意思から入れられたのでしょう。

ところが、最近は、「自主性」よりも「主体性」という言葉をよく聞きます。

改訂された学習指導要領でも「主体性」が強く打ち出されています。

この2つの違いについて考えたいと思います。

「主体性」と「自主性」

まずは言葉の意味を確認します。

  • 主体性:自分の考え・立場をはっきり持って行動するような性質。[学研国語大辞典]

  • 自主:他人の保護、干渉を受けないで、独立して事を行うこと。自立。[日本国語大辞典]

「主体性」は何かをすることから考えて行動する、という意味なのに対し、「自主性」は決まった行動に対しての姿勢であると言えます。

この言葉の意味からも、学校という制度は「自主性」のある生徒との親和性が高いことが伺えます。

現在の学校は「主体性」のある生徒を求めていない

学校では校則や部活動、課外授業など様々な仕組みを使って生徒のやるべきことややってはいけないことを提示しています。

そして、生徒たちは学校や教員が望む行為を「自主的」に取り組むことで良い評価を得る仕組みができあがっています。

つまり、現行の学校制度においては決められたことを「自主性」を持って取り組む生徒が求められます。

方や、「主体性」のある生徒はどうでしょうか。

学校が想定していない活動を始めたり、現行の学校という枠に収まらない行動をとる可能性が十分にあります。

その活動の過程においては外部とのトラブルも十分考えられるでしょう。

「主体性」を持つ生徒の受け入れには覚悟が必要

「主体性」を持った生徒を伸ばすということを学校が決めたのであれば、教員は並々ならない覚悟をする必要があるのではないでしょうか。

「主体性」を持った生徒は、カリキュラムを超えて学びます。

教科書の表面上の記述だけでなく、中身の意味や成立を質問する生徒は放課後にも増えるでしょう。

部活動では、校外の団体などに参加している可能性もあります。

生徒会やその他の団体においても、これまでとは異なる運営を行い、前例踏襲主義からの脱却を強く主張するかもしれません。

自主性のように、自分たちの敷いたレールを率先して走るわけではなく、想像しない場所を走ることが考えられます。

そうした状況を許容する覚悟が「主体性」を伸ばすということだと私は考えています。

「主体性」と「自主性」の違いをきちんと認識し、想定外のことを許容するおおらかさが「主体性」にとって重要なのではないでしょうか。

学校だけでなく、社会全体も含めた認識の変化が必要のように感じます。


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