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「板書の力」の過大評価と授業手法の変化

教員界隈(特に小中学校の先生方が多いようですが)のSNSでは板書の事に関しての報告事例が多くあります。

インスタなどでもキラキラ板書の報告事例を見かけるも少なくありません。

板書に関する書籍を出版している人もいるようです。

板書を工夫すること自体は授業準備や教材研究において重要だと思いますし、それを共有するという取り組みも非常に有意義でしょう。

しかし、果たして板書ベースの授業というのが本当に今後もベストな授業手法と言えるのでしょうか。

板書とは一斉伝達手段の一類型に過ぎない

現代の生徒から私の年代、そしてそれ以上の人、日本で生きている最高齢の人まで、おそらくは同じ形式の授業を受けています。

黒板の前に座り、教師の説明を聞き、板書を見て考えノートに写す形式の授業です。

近年、この一斉授業形式に対してアクティブラーニングなどのゼミ形式やワーキンググループ形式などの新しい形式が注目を受けています。

今回はそうした形式の差異を考察するのではなく、一斉授業形式の中での板書の意義を考えてみます。

一斉授業における板書には以下の3つの役割が考えられます。

  1. 図示による理解補助効果

  2. 問答のログ保存効果

  3. 一斉伝達効果

1.図示による理解補助効果

これは明確な効果です。品詞分解や地図、グラフ、図形や式変形などを言葉だけで表現するのは非常に難しいため、それを補助するために黒板にまとめるということです。

特に論理構造が複雑化したり、抽象的な概念を伝える場合には効果が高いと言えるでしょう。

2.問答のログ保存効果

2番目に、保存に関する効果です。

授業中に生徒との問答によって理解を進める手法は古代から存在します。ソクラテスや孔子も弟子たちとそうした問答によって学問を深めています。

しかし、そうした問答は耳で聞いたのみで忘れてしまったり、伝達したいことが不確かになる可能性が多分に存在します。

それを避けるために、文字表現を媒介にしてその場でログを保存することは一定の効果があるでしょう。

3.一斉伝達効果

これが最も肝になる部分かもしれませんが、複数の学習者に対して伝達を行う場合、同じやり取りを繰り返す必要があります。

その煩雑さを避けるために、全員が目視で確認できる大きさに書くことで同時に、かつ一斉に伝達するという効果です。

近世から近代へ移りゆく時代の中で、教育の大きな転換となったのが板書を利用した一斉伝達の実現によるものでしょう。

一部の上流階級の個別指導による教育から、労働者階級が市民として教育を受けるという変化において、黒板による一斉伝達効果の果たした功績は大きいのではないでしょうか。

教育の社会的意義によってツールも変化する

つまり、教育が果たす社会的意義や目的が変わるときに当然ながら教具もその価値を変えると言えるのではないでしょうか。

これまで教育は国民国家の「国民」を育成することを目標としてきました。もちろん、現在においてもそうした目標がないわけではありません。

しかし、ICTの普及や経済のグローバル化が進む中で、単一国家の「国民」から「世界市民」的な存在の育成が求められつつあります。

SDGsなどが盛んに叫ばれるのはその顕著な例でしょう。そうした文脈の中で「生き抜く力」という言葉が使われ、個別最適化や主体的対話的で深い学びといった教育方法に繋がっていくのでしょう。

さらに、それを具体的な教育技法に落とし込む段階で、板書による教育はその力の限界を迎えつつあるのは間違いありません。

ICTは黒板の上位互換

板書機能の全てをICTは内包する、上位互換的存在です。

1、2、3の全ての機能を兼ね備えるからです。

電子黒板による教材への書き込みや、レジュメを利用した解説によって、図示による理解補助は各自の端末で確認可能となります。書き込みデータの共有により、より優れたノートを保存できます。

さらに動画によって、板書では不可能なプロセスを時系列で確認可能な上、各自の理解に合わせて複数回視聴可能です。

ログ保存は当然可能です。しかも共有をすることによって、個人で取ったログよりも正確性を担保できます。また、動画や音声データとしてのログの保存も可能になります。

一斉伝達に関してはICTの得意分野です。その場にいない人間や遠隔地での授業なども可能になります。

情報伝達ロスを減少させる効果

最も重要なのは従来の板書は

授業者のノート → 授業+板書 → 学習者の保存 → 学習者のノート

という、不確実性を持つ保存者を間に挟む必要があったことにつきます。

ICTの利用によりこのプロセスが

授業者のノート+授業 → 学習者のノート

のように簡略化されることにあります。これは授業を情報伝達として考えたとき、非常にロスの少ない状態にあるのがわかります。しかも途中の不確かな速記者はいないのです。

しかし、板書は無くならない

では板書という行為はなくなるのでしょうか。

それもまた無いでしょう。これは従来型のやり方にこだわる老人が居座る、ということではありません。

もっと前向きな理由で、電子黒板やホワイトボードにその場で書き込むという行為がライブ的授業においてその手法は有効だからです。

ただ、あらかじめ入念に準備した「練りに練った板書計画」という存在と、それを授業中に黒板に書いて見せる(魅せる?)という手法は費用対効果の観点から廃れていくのではないでしょうか。

それならば事前準備した資料に補足していく形のほうが間違いなく読みやすい上に、学習者の筆記速度を考慮する必要が無くなるからです。

ということを個人的には考えていますが、実際のところ日本でどこまで新しいICT教育技法が普及するかは不透明です。

もし10年後も同じ形で授業をすることがスタンダードだとしたら、失われた〇〇年の数字に10を足す必要がありそうだと個人的には考えています。

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