「陰キャ」×「ボッチ」でも教員は務まる
私は友人がいません。そのことについて以前記事を書きました。
当然、私は基本的に社交的なタイプではありません。
地域の交流なども最低限のあいさつ程度ですし、知人と出かけたりすることもほとんどありません。
趣味はガジェット収集とアニメ、音楽の視聴ですし、アウトドアはとことん苦手です。
卒業生とつながりがあるようなキラキラ教師でもあるわけがありません。
プライベートで話すのはほとんど妻子のみという有様で、典型的な「陰キャ」×「ボッチ」です。中高時代は教室の隅で本を読んでいるような生徒でしたし、2人組のペアを探すのに苦労した記憶しかありません。
しかし、意外なことに教育業界で20年以上仕事をすることが出来ています。
教員という仕事は生徒とコミュニケーションを取らずに仕事が成立しない職業です。
授業中も、授業外での面談や指導においても、人間同士のコミュニケーションを必要とします。それゆえに、「社交性」は教員の素養として必要不可欠であると考えがちです。
しかし私のような人間が、とりあえずは仕事を継続できていることを考えると、「社交性」は教員の必須条件と言えるのか、疑問が湧いてきます。
教員の適性と社交性
教員の適性についても先日記事にしました。
教員の適性は判別しにくい、という私見を述べました。その理由は過去記事を参照にしてもらいたいと思いますが、簡潔に言えば教員の職務が幅広いことが原因の一つと言えると考えています。
実際に、業務時間を整理すると、書類業務や資料作成に関する時間が結構な割合を占めることに気づきます。
私学の私ですらそうなのならば、法律や政令、省令上必要な文書が多い公立の教員はなおさらでしょう。
つまり、そもそもコミュニケーションが業務時間の中の一部に過ぎない、と言えます。
さらに、授業においても教員は授業を行う際は授業準備をしてから生徒の前に立ちます。
何を、いつどのタイミングで、どういったアプローチで問いかけるかは事前に考えて発問ややり取りを行っています。
また、問いかける内容が基本的に教科の目的を持っているため、実際の会話とは異なり、やりとりに困ることが無いのです。
(「社交性」の無い人間にとっての鬼門は「目的の無い会話」です)
教員は役割がはっきりしている
生徒との関係性においては教員の役割ははっきりしています。
私はそれほど仲が良くない人間と会話することに抵抗があり、他人と会話をすることが苦手で目を合わせることができません。
(初対面の人やその場限りの人との会話はそれほど抵抗はありません)
しかし、生徒と教員という関係は質問したり、指導を行ったりすることが許される関係性を本質的に持っています。
そのため、教員という役を演じている場においてはそれほど気兼ねなくコミュニケーションを取ることが私でも可能なのです。
また、授業の場合も同様で、それこそ脚本、構成、出演をこなす役者と同じような認識であるため、授業の場では「先生」を演じていれば良いので、普段のコミュニケーションよりもむしろ気が楽ですらあります。
「社交性」よりも「専門性」
小学校の教員はともかくとして、高校の場合は私のような「社交性」の低い人間でも基本的に問題なく仕事をこなすことは可能です。
私の勤務校でも私と同様の「社交性」の低い人は結構な数存在します。また、他校や公立などの様子を知人から聞いても高校ではそうした人は決して少なくはないようです。
(中学校は微妙ですね、私よりは社交的な人が多い印象です)
むしろ「社交性」よりも教科や指導に関する「専門性」を問われることが多いと感じます。
教員不足の一助になれば
最近は教員志望者が減少しており、私の勤務校でも病休や産休代替の人員を探してもなかなか見つからないケースが増えています。
もちろん教員の労働環境などで志望者が減っているということもありますが、自分の「社交性」を理由に教職を選択肢から外している人もいるのではないでしょうか。
「社交性」の有無が教員の資質にとって不可欠ではないことを知ってもらうことで、教職の選択肢を残す人が一人でも増えることを願いたいと思います。