見出し画像

教員免許は専門性が無い紙切れか

学校の教員なんて誰でもできる、という言い方をする人は少なくありません。

これは自民党の教員に対する奨学金の返済免除に関するニュースへのツイートです。さらにこれに以下のような連ツイがされています。

教員の筆記試験的な学力

そもそも教員の能力に関して、これは十把一絡げに論ずることは難しいでしょう。

多くの学歴至上主義者や偏差値万能論者は、上のツイートの意見に近い考えを持っているのではないでしょうか。

能力に関しての議論を行う場合、あまりに幅広い内容になるため、まずは筆記試験的な学力に関して考えます。

まず、学術的な観点から言えば確かに旧帝大卒の人は優秀です。彼らは人口比に対して5%以上の暗記力、思考力を持っていると考えられるからです。

少なくとも筆記試験的な要素においては、人生のある一時点において同世代の頂点に近い位置にいた人たちです。

一方で、教員(特に小中学校の)になっている方はいわゆる地方国立大学や教育大学を卒業した人が多数派です。

当然ながら筆記試験的な要素では旧帝大卒の人に高校時代の入試時点では劣っていたでしょう。

しかし、いくら最上位ではないとしても、地方の教育大学に入学するのに必要な筆記的な学力は同世代の上位10%以上ほどになります。

つまり教員になっている人たちであっても、少なくとも同世代で比較した場合、学力的にかなり優秀だった人がほとんど、ということです。

果たして、国民全員の教育を行うの職業に対して、旧帝大以上ほどの学力が必要でしょうか。

正直なところ、そこまでの学力が必要であるとは私には思えません。

教員に求められる能力

そもそもの問題点として、教員に求められる能力は筆記試験的な学力だけではないということがあげられます。

学校現場においては多人数を統率したり、指示を出したり、一人ひとりに注意を払って調整する力が求められます。

特にこれは学齢が下がるほどに教員側にその能力がより必要になるでしょう。

私は高校教員であるため、小学校の先生を見て、その目配り気配りや指示の出し方に素直に尊敬、感心してしまいます。

果たして、偏差値の高い大学に進学したという条件だけでそうした能力を兼ね備えていると言えるでしょうか。

医師などに教員免許を与えるというのはかなりの極論でしょう。
(学力的には優秀な人が多いのですが、極めて「クセ」が強い人が多い印象です)

一方で教員養成系に進学する人の多くは、学校に通う間に教員のサポートなどを行い、統率する経験やできない子供のサポートをしてきた人たちです。

むしろ率先してそうした行動をとることで、教員への志望を高めたタイプは決して少なくありません。

さらに言えば、教員免許の取得過程は教育実習などを含めそうした能力や適性の無い人は途中で脱落していく制度となっており、免許取得の時点で最低限のふるいにかけられてはいるのです。

高校でさえも学力だけで授業は成立しない

私自身が他の教員の能力を語る立場にはありませんが、教員の世界が玉石混交であることは間違いありません。

教員の中には教科指導をすることが難しい学力の人や人格的に問題のある人も一定数は存在します。

小中ならばともかく、高校教員の場合は学力があれば授業なんて簡単だろうと思っている人は少なくありません。

それこそ指導困難校でなければ学力だけで授業が成立すると考えている人は多いようです。

おそらく引用元のツイ主もその一人でしょう。

しかし、ただの受験エリートに授業を任せてもたいていの場合はまともに授業が成立しないケースがほとんどです。

それこそ、教科書をただ読み進めるだけか、独りよがりな趣味を開陳するのが関の山です。

免許の更新や再教育制度は必要

かつてあった教員免許更新制が不適格教員の排除のための仕組みであったにも関わらず、結局は手間をかけさせるだけの集金システムになり下がりました。

しかし、それは他の職業においても変わりません。免許更新制度とは名ばかりで、手続きだけのシステムになっているのは国家の制度的な問題であって、個々人の問題ではないはずです。

本当に必要なのは、免許の価値を下げるのでもなく、免許の廃止でもなく、不適格者に対し再教育を行うシステムの構築ではないでしょうか。




いいなと思ったら応援しよう!